🏹27〕28〕─1─後醍醐天皇は日本を朱子学による中央集権国家へと大改造しようとしたが失敗した。~No.85No.86No.87No.88No.89 @ 

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 天皇は異形の王権。
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 後醍醐天皇足利尊氏との戦いは、朱子学科挙による天皇中心の一君独裁中央集権体制と仏教・世襲制による武士中心の二君並立封建体制との戦いであった。
 二君並立封建制度によって、天皇制度が存続できるようになった。
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 2018年5月31日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [中性篇]
 66 建武の新政を学んだ
 建武の新政の政治理念には、中国の朱子学の影響が大きいといわれています。朱子学とは何か、改めてこれで見ておきましょう。
 朱子学は12世紀後半、南宋朱熹(しゅき、朱子)によって完成された新しい儒学の学説です。
 この連載中世篇の最初にお話ししたように、宋の時代に『唐宋革命』と呼ばれる社会の大きな変動がありました。その要点をまとめると、唐の時代の支配層だった貴族が戦乱によって滅び、士大夫(したいふ)という新興階級の上に独裁権力を握った皇帝が君臨するシステムができあがりました。
 士大夫は家柄によらず、科挙によって知識人であり、皇帝独裁を支える官僚です。
 やがて宋は北方の遊牧民の国、金に屈して臣下の礼をとり南方へ移ります(南宋)。朱熹南宋儒教を体系化し、自己と社会、自己と宇宙を『理』という人間の本性で結びつけた朱子学を打ち立てました。
 これは空前絶後の壮大な学問体系でした。現在の学問分野に当てはめると、存在論、自然学、倫理学、心理学、認識論、歴史哲学、文学論に及ぶといわれます。中でも力点を置いたのが人間と社会の問題で、皇帝と人民双方に対して責任を持つ士大夫が社会貢献する方法の追求でした。
 漢民族ナショナリズム
 朱熹は多くの士大夫と同様、政治的には金との屈辱的な和平路線に反対し、徹底抗戦を主張していました。
 むしろこの政治状況から朱子学が生まれたので、これは漢民族アイデンティティを求める思想となります。朱熹は『名分論』という学説で、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の倫理の確立を説き、華夷(漢民族と異民族)の区別を強調して、金に対する復讐と排除を主張します。
 露骨に述べると、朱子学は、北の遊牧民に追われて江南に移った、劣等意識に凝り固まったエリートがつくり上げた悲憤慷慨(ひふんこうがい)の理論体系です。軍事的・外交的に負けているからこそ、自分たちの民族的・文化的な優越性と正統性を唱える漢民族ナショナリズムが生まれたのです。
 朱子学は合理的な学問体系であるはずなのに、『漢民族ファースト』というイデオロギーが入って、おかしくなってしまうのです。歴史学者ジョン・ルカーチの『歴史学の将来』に、『ナショナリズムとは劣等感と不義を結んだ祖国愛である』という外交官の言葉が出てきますが、まさにそれが当てはまります。
 その象徴的な例が『蜀漢正統論』です。三国志の魏、呉、蜀の三国について、漢が滅んだ後の中国では魏が正統政権であることは自明の理でした。正史の『三国志』でも魏を正統な後継政権として扱っています。
 ところが朱子学では、魏ぼ曹丕は簒奪者(さんだつしゃ)であり、漢の皇室とつながりのあった劉備の蜀こそが正統王朝だという『大義名分論』が持ち出されたのです。華北を取られた南宋が、金の実効支配に対抗するために持ち出した理屈ですね。
 南宋の宰相の秦檜は金に軍事力ではかなわないのを見極めて、融和政策をとっていました。ところが岳飛という威勢のいい将軍が、『漢民族の大地を女真族の金に渡すな』と北伐を起こしたりするので、秦檜は岳飛を謀殺しました。南宋を存続させたのは秦檜の現実論だったのですが、朱子学では秦檜は売国奴岳飛が英雄という扱いになります。
 グローバル化に乗り遅れ
 金を滅ぼしたモンゴル帝国のクビライが建国した大元ウルス(ウルスは国の意味です)は、銀の大循環による重商主義政策をとっていました。そこでは交易が重要で、多言語をあやつるグローバルな人材が求められました。科挙の勉強に明け暮れていた従来の官僚には大臣が務まりません。そこでクビライの政権はウイグル人、アラビア人、ペルシャ人などの外国人によって占められるようになります。
 もはや外国語ができないと出世ができない。科挙の受験生たちは、江南に流れていきます。ここは宋の時代から中国の経済を担っていた地域で、温暖な気候によりお米がたくさんとれましたから、裕福な地主や商人がいました。その子弟の家庭教師になるぐらいしか食べる手立てがなくなってしまったのです。
 『モンゴル人のおかげで、今ではしがない家庭教師で口に糊としている』という彼らの心情に、朱子学がフィットしたのです。モンゴルのグローバル政策に乗り遅れた人々のうっぷん晴らしという一面がありました。そのため、後に漢民族の王朝である明が1368年に成立すると、朱子学は全盛時代を迎えます。
 これは朱熹自身にとっては皮肉な成り行きだったといえるかもいれません。朱熹はもともと、異民族に脅かされている中で、人々が出世のことしか考えずに科挙の勉強に没頭する様を嘆いたんですね。晩年には朱子学は『偽学』として弾圧されて、不遇のうちに没しました。
 しかし死後10年ほどで名誉回復されると、やがて孔子の正統を継ぐ学者と認められ、体制教学になっていきます。
 後醍醐はわかっていなかった
 朱熹が死んだのは1200年ですから、後醍醐天皇の頃には100年以上経っていて、日本にも朱子学の文献がたくさん到来していました。モンゴルの支配を嫌って来日した禅僧らが伝えたのだと思います。
 とくに朱子学の名分論が、後醍醐の討幕運動を理念的に支えとされています。以前に触れた通り、『徒然草』には皇太子時代の後醍醐が『論語』の学習をしていた様子が書かれています。特に『色の世界では朱が正色なのに紫にその地位を奪われている。孔子はそのことをにくむ』という一節に関心を持っていたというのです。朱を朝廷、紫を幕府と読み換えて、この時期から倒幕のための理論を固めようとしていっとも考えられますね。
 後醍醐たちが朱子学を正しく理解していたかどうかはよくわからない面がありますが、宋の皇帝独裁体制と後醍醐天皇の政権構想には明らかな対応関係が見られます。
 家柄によらず人材を登用して、役人の皇帝への忠誠を確保する。皇帝が政府機関を直接に支配し、政務を直接に決裁する。地方の高官の中央政府の任命制とする。州に知州事と通判の二長官を置く・・・後醍醐が日野資朝楠木正成名和長年などを、官位を超えて重用したこと、綸旨(りんじ)至上主義で些末なことまで直接決裁をしたこと、地方に国司と守護を併置したことなどが連想されます。
 後醍醐が亡くなった後、その側近だった北畠親房は史論『神皇正統記』を著して『(北朝に圧倒されて現実は劣勢でも)大義名分や正統性は南朝にあるんやで』とPRしました。
 江戸時代、朱子学に影響を受けた水戸学の視点で編纂された『大日本史』でも、この見方は受け入れられ、明治後期以降の南朝正統史観につながっていくわけです。
 ですが、宋と後醍醐親政には決定的な違いがありました。宋では貴族が滅んだ後、地主層が知識人となって科挙を受け、皇帝に忠実な官僚層を形成しました。日本では貴族が健在で、また彼ら以外に知識層が育たず、科挙もなく、中国のような官僚制を形成する条件は存在しませんでした。それを理解しなかった後醍醐の新政はたちまち崩壊へと向かって行くことになります」
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 朱子学は、正学とされた江戸時代では教養として読まれていたが、政治の統治理論として採用されたのは明治新政府からであった。
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 日本は、江戸時代までは仏教国家であったが、明治時代からは儒教国家となった。
 儒教理論を国民の間に定着する為に強行されたのが、仏教弾圧の廃仏毀釈神道弾圧の神社合祀令であった。
 仏教界は存続の危機感から、儒教体制に取り入る為に考え出したのが無宗教無信仰拝礼の国家神道であった。
 国家神道は、皇室神道神社神道とは無関係である。
 戦後。儒教や仏教は、戦争責任を国家神道に押しつけると同時に皇室神道神社神道をも同罪として逃げた。
 日本に戦争という悲劇をもたらし、日本人に戦禍という悲惨をもたらしたのは、儒教と仏教であって神道ではない。
 儒教や仏教は、大陸から朝鮮から日本に伝来した宗教であり学問であった。
 国家神道と、真犯人を隠蔽する目眩ましにすぎない。
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 昭和前期までの日本を誤らせたのは、朱子学儒教であって国学神道ではない。
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 日本は、奈良時代中期までは神道国家で、江戸時代・明治維新までは仏教国家で、昭和前期・敗戦までは儒教国家であった。
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 日本に朱子学が根付かなかったのは、中華儒教に基づく官僚登用試験・科挙制度を導入しなかったからである。
 世襲制の武士は、何処の馬の骨とも分からぬ科挙合格者の役人に先祖代々の土地や家を奪われる事を拒絶し、封建体制を維持した。
 中国や朝鮮など中華世界は、朱子学を採用し、科挙制度で血縁や地縁に関係ない教養人を官僚に採用し、中央集権体制として各地に派遣して統治した。
 朱子学が、正統な中華儒教である。
 朱子学を採用した中国・朝鮮は近代化に失敗し、朱子学を拒絶した日本は近代化に成功した。
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 後醍醐天皇が強権で進めた日本改造計画が失敗したのは、血筋・世襲制によらない人材・士大夫が育っていなかったからである。
 だが、もし士大夫階層が育っていたら、日本に「天命論」に基づく易姓革命が起き、天皇制度は崩壊し、朝鮮のように中華帝国の属国となるか領土になっていた。
 最悪な場合、日本民族は死滅し、日本人は漢族系日本人になっていた。
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 天皇制度廃絶を目指す反天皇反日的日本人は、日本に人物本位の能力主義実力主義成果主義を取り入れようとしている。
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 何故、日本型血筋・世襲制が滅びる事なく存続できたのか。
 それは、大陸からの異民族による侵略で日本民族日本人が皆殺しにされなかったからである。
 異民族の侵略で民族が虐殺され根絶やしにされた国では、本当の意味での血筋・世襲制は残れなかった。
 能力主義実力主義成果主義の国とは、異民族の侵略で民族が虐殺さ奪われた国である。
 日本で人物本位の能力主義実力主義成果主義が根付きにくいのは、この為である。
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 だが、日本人の本心から言えば、日本の支配者が誰になっても気にはしなかった。
 日本人ではなく、中国人、朝鮮人、モンゴル人その他の異民族でも抵抗なく反抗せず受け入れ、主君として忠誠を誓い臣下として従った。
 日本人は、好戦的な岳飛ではなく和平的な秦檜に賛同する。
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 武士の時代は、足利尊氏室町幕府から始まった。
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 鎌倉幕府は、朝廷から警察権のみを与えられ国内の治安維持を行ったが、政治や外交などの統治権は朝廷が持っていた。
 モンゴルの侵略(蒙古・高麗連合軍)である蒙古襲来の外交交渉権は、鎌倉幕府ではなく朝廷にあった。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、日本人の子供約800人を戦利品として強奪して高麗国王に献上した。
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 室町幕府は、警察権はもちろん統治権としての政治や外交も手に入れ、朝廷から権力を奪い権威だけ与え、天皇を飾りとして御所の中に軟禁した。
 足利義満は、朝廷に伺いを立てる事なく、明に入貢し勘合貿易を始めた。
 現実の利益を得て豊かになる事を優先して、天皇の存在を無視し、明国皇帝に臣下の礼を取った。
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 日本は、武士による政治権力と天皇による宗教権威がハッキリと分断された二元体制社会となった。
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 宗教権威には、天皇神道権威と比叡山を頂点とする仏教権威に2つがあり、伝統的神仏混合(神仏混淆{しんぶつこんこう})で仏教権威が神道権威の上にあった。
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 中世、日本は西洋や中華に負けないだけの高等教育機関を持っていた。
 宗教では、西国の、天台宗の総本山延暦寺比叡山)と真言宗の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ、高野山)である。
 学問では、東国の、神奈川県横浜市真言律宗称名寺境内にあった金沢文庫と栃木県足利市真言宗大日派総本山の鑁阿寺(ばんなじ)境内にあった足利学校である。
 特に、足利学校は、中華の古典・漢籍を学んだ優秀な人材を全国の守護大名らのもとに送り出していた。
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 日本人は、絶対真理で妥協なき完成された不動の教義より相対真理で如何様にも解釈できる未完成の曖昧な教義を好む。
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 由緒正しい武士とは、刀を振り回すか野良仕事をするしか能がない無学・無教養な人間ではなく、日本や中国の古典や漢籍を読み、万葉集古今和歌集などを学んで和歌を詠み、能を舞い、笛を吹く、学問と教養のある趣味人であった。
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 中世の、前期である平安・鎌倉両時代は朝廷・貴族の文化であったが、後期は室町時代は幕府・武士の文化であった。
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 日本文化の関心事は、花鳥風月+虫の音に影響されて動く心である。
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 西洋の正統性には、キリスト教の絶対価値観に基ずく王権神授説・皇帝神権説と社会契約説・社会有機体説の二つの大きな流れがあった。
 それは、異民族が異民族を支配する体系である。
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 天皇制度は、中華の天命論や放伐論とは無縁であり、西洋の王権神授説や社会契約説とも違い、神の裔という血筋・皇統を絶対視していた。
 それ故に、天皇家・皇室は神聖不可侵として護られていた。
 天皇制度とは、日本民族が日本列島で生きて行く為に編み出した絶妙な制度であった。
 天皇制度こそが、日本に於ける唯一の正統政権である。
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 網野善彦、『異形の王権』。
 「後醍醐天皇天皇史上、きわめて特異な役割を果たした天皇であることは、それを否定的にとらえるにせよ、肯定的にとらえるにせよ、事実として広く認められているといってよかろう。そして後醍醐の建武新政府の崩壊後、日本列島主要部の社会を60年にわたって動乱の渦の中に置いた南北朝動乱を境に、前近代の天皇のあり方、その権威と権力の実質が大きく変わることも、また異論の入る余地はないといえよう。
 それだけに、後醍醐の政治についての研究は、それを『建武中興』ととらえた戦前と、前後に類を見ない専制的、反動的な政治と見る戦後とでは、その評価が大きくゆれ動いている」
 「笠松宏至が着目してるように、建武政権も末期に近い建武2年(1335)、新政府の発した『陣中の法条々』は、このころ陣中ー内裏の内部に『異形の輩』が出入していたことを明らかに物語っている。
 ……
 天皇の居所である内裏の中に、ごみを捨てたり、よごしたりする者が出入し、それを政府が制止するために法令を発する。この珍妙ともいえるような事態、『天皇の保持する権威と清浄の原点ともういべき内裏内部で、このような次元の低い禁制を必要とする事態』に、笠松建武政府の異様さの極致、その特有な性格を見出し、この内裏に出入するものの中の一つのグループとして『全国各地から蝟集(いしゅう)してくるおびただしい訴訟人の群れ』をあげ、他のグループとして、物売りや『聖俗いずれとも判断のつかない者ども』があったとしているが、私はこの後者の中に、覆面をつけ、足駄(あしだ)をはいた非人・『悪党』のいたことは確実と考える。実際、『程遠からぬ参内の時も』、文観の『輿の前後』をかこんでいたという『数百騎の兵』の中には、こうした多数の『異形の輩』がいたに相違ない」
 「後醍醐は文観を通じて『異類異形』といわれた『悪党』、『職人』的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏にまでこの人々が出入する事態を現出させることによって、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた」
 「後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通じて、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の『暗部』に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。いかに『近代的』な装いをこらし、西欧的な衣裳を身につけようと、天皇をこの『暗部』と切り離すことはできないであろう。それは後醍醐という異常な天皇を持った。天皇家の歴史そのものが印刻した。天皇家の運命なのであり、それを『象徴』としていただくわれわれ日本人すべても、この問題から身をそらすわけには決していかないのである」
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 日本天皇の力の源は、最下層で偏見と差別で虐げられた異形(いぎょう)・異類の獣様な穢れた賤民達にあった。
 日本天皇天皇制度・天皇家・皇室を守護したのは、社会の底辺で生きていた非人・エタ・河原乞食・山の民・海の民・川の民などの「穢れた賤民達」であった。
 日本の暗部とは、日本天皇を影で護っていた、政治権力や宗教権威とは無縁の「穢れた賤民」であった。
 日本天皇は、国家存亡の危機や皇統存続の危機などの非常時に、そうした社会の嫌われ者である「穢れた賤民達」を総動員し糾合する力があった。
 日本の穢れなき清浄とは、表層で見栄えだけを取り繕った誤魔化した「まがいもの」ではなく、深層で意見薄汚れた所にある変わる事のない「ほんもの」のことである。
 それ故に、キリスト教会とマルクス主義は、昔から天皇を目の敵にし、隙あらば天皇制度を廃絶し、神代から続く天皇家・皇室を消滅させようとしている。
 日本天皇とは、最高女神・天照大神を祖先神・氏神とし、血と命、心と志を受け継ぐ万世一系男系天皇(直系長子相続)の事である。
 最高女神・天照大神の霊魂を受け継いだ子孫が正統な天皇に即位できるが、祖先が誰か分からない赤の他人が周囲の支持者の協力で天皇には即位できない。
 天皇の正統性・皇統は、祖先である最高女神・天照大神による。
 非人・エタ・河原乞食・山の民・海の民・川の民などの穢れた賤民達は、中国を真似た律令制度、インドから伝来した仏教、中国から輸入した儒教が作りだした社会的地位・人間的立場・組織的身分で弾き出された人々である。
 律令制度・仏教・儒教以前の日本では、天皇家=大王家は穢れた賤民達と近い関係にあった。



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