🏹29〕30〕─1─皇国史観、民族主義、軍国主義の源泉は、皇室が分裂した南北朝にあった。~No.91No.92No.93No.94No.95No.96 

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 正統論や尊皇攘夷思想は、南北朝時代に宋から輸入された。
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 2016年2月5日号 週刊朝日司馬遼太郎の言葉 この国のかたち──『楠木正成』 幕末の『楠公さん』 文=村井重俊
 日本人は思想好きだが、思想はなかなか根付かない国かも知れない。
 南朝のヒーロー、楠木正成の思想的な評価は時代により変遷した。
 日本は大思想家を持たない国だと、司馬さんは考えていたようだ。たとえば空海親鸞は出るが、ブッダは出ない。あるいはルソーは出ないし、マルクスも出なかった。『この国のかたち』の第一章にある。
 〈──日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている。
 とはまことに名言である〉
 仏教やキリスト教、自由民権思想もマルクス主義も海を渡ってやってきた。しかし、ヨーロッパや中近東、中国、インドのように、すべての人が思想化する歴史をついに持たなかった。ただ、あこがれは強い。
 〈思想とは本来、血肉になって社会化するべきものである。日本にあってはそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである〉
 明治維新を支えた思想といえば、『尊王攘夷』だろう。『王を尊び、外敵を打ち払う』という素朴な思想だが、もとをただせば13、14世紀ごろの輸入しそうだった。
 宋(960〜1279)ほど異民族に苦しんだ中国の王朝もない。女真族に追われて南宋となり、結局モンゴルに滅ぼされた。国が滅びつつあるなか、進んで侵略者の官僚や協力者になる漢人がいて、ナショナリズムを鼓舞する必要があった。
 〈宋という特殊な状況下で醸し出された一種の危機思想で、本来、普遍性はもたないものなのである〉
 それが『宋学』(朱子学、道学)という新思想として日本に入ってきたのは鎌倉末期だった。
 もっとも日本にはめったに外敵が来ない。そのため戦うべき『夷(えびす)』を鎌倉幕府武家政治)と考える若い公家たちが出てきた。
 彼らの希望の星は後醍醐天皇(1288〜1339)である。本人がなにより宋学の信奉者であり、中国風の独裁皇帝をめざし、激しく鎌倉幕府に反抗した。戦いに敗れて隠岐に流される(1332年)こともあったが、ここで救世主が登場する。
 楠木正成(1294〜1336)だった。後醍醐天皇が厳しい状況にあるなか、懸命に支えた。1,000人にも満たない手勢で河内金剛山麓の赤坂城に立てこもり、幕府の20万もの大軍を悩ませたという。
 〈かれは卓越した戦術家だっただけでなく、世間というものを、心理学的に、あるいは政治力学という点で、心得きっていたといえる〉
 幕府の力が衰えていることを満天下に知らしめることに成功した。
 正成の活躍に各地で呼応する勢力が増えていき、ついに鎌倉幕府は滅亡する。こうして建武の新政(1333年)は始まるが、ここから正成の運命は暗転する。

 『太平記』は、闇の中から出てきたような正成の登場とその華麗な活躍と知的な風韻によってはじめて生彩を得るのである。

 神戸の有名な神社には愛称がある。生田神社は『生田さん』、長田神社は『長田さん』、そして楠木正成を祀る湊川神社は『楠公(なんこう)さん』。湊川神社社報のタイトルも『ああ楠公さん』で、気さくな感じでもある。楠公さんには2016年も初詣客が110万人訪れた。神戸の人々に愛されている神社だが、ここは正成終焉地でもある。
 せっかく成った建武の新政だったが、後醍醐天皇と側近たちには実務能力がなかったようだ。失政が続き、あっさりと人心は離れた。離反した足利尊氏との戦いではいちどは勝利するものの、尊氏は九州で復活、大軍を擁して都に迫ってくる。正成は戦線を立て直すために都からの撤退を訴えたが、後醍醐天皇にその声は届かない。
 側近の公家は声を荒らげ、
 『楠、罷(まか)リ下ルベシ』
 と、必敗の戦場に向かわせる。
 〈その人数は、雲霞(うんか)のような尊氏の大軍にたいし、わずか500騎だった。正成は湊川で戦死し、尊氏の擁する北朝の世になった〉
 正成の墓は湊川神社境内にある。室町期は地元の人々が細々と祀っていたが、江戸の元禄時代に流れが変わった。
 『黄門様』と呼ばれた水戸光圀は1692(元禄5)年、家臣を湊川に派遣し、墓碑を建てている。
 『嗚呼忠臣楠子之墓』
 という題字は光圀自身が書いたもので、その思いの深さが伝わる。
 〈光圀は、南朝の諸将のなかで、人柄と戦略の才においてきわだっていた楠木正成を顕彰した。正成をたたえることによって、南北朝史における正邪を水戸学の立場から明快にした〉
 光圀が編纂した『大日本史』では南朝が正しいとされた。これが後世に大きな影響を与えることになる。
 さらに頼山陽の『日本外史』(1827年)もこの立場を踏襲する。
 日本で初めての通史で、価値観を朱子学にとっていたため、尊王論で貫かれていた。外国船が日本沿岸に姿を見せ始めていたころでもある。
 〈当然南朝は正統となり、正成は善、尊氏は極彩色の悪になった〉
 当時の武士の多くは『日本外史』のファンだった。たとえば新撰組局長の近藤勇の愛読書でもあり、『燃えよ剣には近藤が土方歳三の前で正成のくだりを読み、涙をにじませる場面がある。
 こうして西国街道に面した墓所には、その後多くの人が集まるようになった。1840(天保11)年に墓所を訪れた儒学者で詩人の広瀬旭荘は、『楠公墓碑に参詣する者日に千を以て数へる』と、備忘録に書いている。一躍、観光名所のようなにぎわいを見せていたようだ。
 そして『志士』と呼ばれる青年たちの念願の地だった。吉田松陰木戸孝允桂小五郎)、久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文西郷隆盛大久保利通と、幕末のオールスターたちも墓前を訪れている。
 筑波大学名誉教授の大濱徹也さんに話を聞いた。大濱さんは著書の『天皇と日本の近代』(同成社)のなかで、楠木正成の歴史的役割につて書いている。
 『京都の新島襄旧邸の応接間には、湊川神社楠木正成墓碑の拓本レプリカが展示されています。拓本を座右に置きつつ、聖書を説いたのが新島です。新島の原点ですね』
 という。1862(文久2)年、新島は神戸・湊川を訪ねている。
 『「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字と朱子の銘文を読み、涙を流しています。攘夷を果たすためにも外国を知らなくてはならないと考え、2年後に箱館(函館)からアメリカに渡る。日本のキリスト者には、新島のみならず、楠公に託して己の志を説いた人がみられます』
 幕末の政争が激化していくなかで、倒幕派の薩摩・長洲などでは『楠公祭』が行われている。楠木正成を命日に追悼する祭りだが、この追悼祭に合わせて討幕の非命に倒れた同士を偲んだ。
 『京都・東山では楠公祭という名目で、新撰組などの幕府によって殺された同志の追悼祭が営まれたわけです。時の敗者にとって正成の存在は大きい。たとえ敗残者となっても、やがて楠公のように歴史として甦ることができると、勤皇方の志士たちは考えました』

 日本が孤島にあるために、海のかなたから思想がやってくる場合、都合よく要約され、思わぬ爆発力をもつ場合がある。

 江戸時代は『太平記読(よみ)』が流行した時代でもあった。講談の源流をなすもので、南北朝の動乱が語られる。司馬さんも書いている。
 〈元禄のころ、武士も庶民の世界で隆盛をきわめた。当然ながら人気は正成に集中した〉
 大濱さんはいう。
 『正成には敗北のロマンがあって日本人好みですからね。攘夷の象徴として人気が高まるなか、正成に連なる南朝の人々の顕彰運動も始まっている。さらには、神武天皇の世を理想視する動きもあります。当時の豪農の日記には、「このごろ神武天皇の御筆が値上がりした」と書かれています。開港後の物価騰貴で混乱する世を、応神天皇陵や仁徳天皇陵が荒れ果てているから天皇霊が荒ぶる魂となったのだと説く国学者もいた。攘夷と万世一系天皇家に対する崇拝の動きが重なり、討幕の気分を盛り上げていきます』
 明治になると、この勢いはさらに加速している。
 『1869(明治2)年4月に楠社の造営が始まり、その支援を人々に呼びかけます。この楠社が1872(同5)年に別格官幣社湊川神社」となったわけです。教育にも取り上げられています。明治23年に日本にやってきたラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、松江の小学生たちが楠木正成の歌に合わせて行進する姿を見ています。この歌は当時の軍歌で、正成の一代記ともいうべきものです。有名な小学唱歌となる落合直文「櫻井の別れ(訣別)」ができたのは後のことです』
 『櫻井の別れ』は代表的な小学唱歌だった。
 『青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ』
 と始まるこの歌は、正成親子を偲んでいる。正成は湊川出陣のために摂津国桜井(現大阪府島本町)でわが子正行と別れることになる。
 『自分は死ぬが、おまえは生き残って天皇のために闘いなさい』
 諭す正成に、正行はすがって同行を願う。しかし、正成は許さない。
 『汝(いまし)をここより帰さんは 我が私の為さらず おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘(まま)ならん 早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為』
 というのが4番で、この歌は実に15番まである。
 『こうして民衆のなかにあった潜在的楠公への記憶が組織化され、イデオロギーとして国家に組み入れられていきます。大東亜戦争末期の特攻隊や「回天」の乗務員たちは、「七生報国」の鉢巻きをして、最後の戦いに出ていった。湊川で敗れた正成は弟の正季と刺し違えてなくなるのですが、そのとき正季が言った言葉が「七度生まれ変わっても国賊を滅ぼさん」というものでした。特攻死するのが無謀なことはわかっていても、それは決して犬死にとはならない、己の無残な死も正成のように後の歴史として蘇り認められるという思いを楠公に託したのでしょう』
 大濱さんも少年時代に『青葉茂れる・・・』と歌って育った。1952年は血のメーデー事件があった年である。皇居前広場で学生らと警官が衝突した事件で、大濱さんは中学生だった。東大の五月祭に行き、歴史関係のサークルの部屋に入ってみて驚いたそうだ。
 『「悪党楠木正成 尊氏は革命家」といった大きな貼り紙があった。悪党はもちろん非御家人の侍という意味でもあるけれど、こちらは忠臣としてしか教えられていないから、楠木正成が悪党なんだと驚いたわけです。私が歴史に目覚めた、私の歴史開眼はこのときかもしれない。歴史は書き換えられ、創られるものだと思った。歴史を読み解くことは、その時代に同伴する態度がなくては書けませんね』
 司馬さんは『この国のかたち』の『宋学』をこう結んでいる。
 『戦後、朱子学的正閏(せいじゅん)イデオロギーの歴史は、消滅した。したがって、正成も去った』」
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 日本人は、武士・サムライ・武者ではなく町人・百姓の庶民であった。
 町人とは、商いの才覚を駆使する競争力のある商人と創作意欲及び生産能力が高い職人が大半であった。
 庶民は、理系論理思考で、好奇心と飽きっぽさから在り来たりを嫌っていたが、優れた良いモノは長く愛用した。
 庶民に理系論理思考をもたらしたのは、自然災害多発地帯という生活するに厳しい気候風土である。
 同時に、理詰めばかりでは息苦しい為に息抜きとして文系現実思考を発揮し、文学や芸術やお芝居を愛し、桜や梅などのお花見といった四季折々の催し、各地各所のお祭祀などの諸行事、神社仏閣や名所旧跡や風光明媚な景勝地や温泉地などへの物見遊山の観光を楽しんだ。
 日本の庶民は、中華世界の小人と軽蔑され苅っても苅っても蟻の如く湧いて出てくる民草ではなく、欧米社会の民衆で人民でもない。
 当然、国民でもなければ、市民でもない。
 庶民にとって、支配者や領主が誰であっても気にはしない。
 明君であろうと暗君であろうと、自分たちの生活を苦しめるような自己満足的な悪政は許せなかったが、善かれと思って行った事が上手くいかず失敗した失政は「仕方がない」と許した。
 最も許せない事は、ウソを吐き約束を破り責任を取らず誤魔化し、お互いの信用や信頼を踏みにじる事であった。
 正しい事であれば、如何に無茶で無体な事でも「御上、ご無理ご尤も」として受け入れた。
 庶民は、祖先神・氏神の人神信仰を否定せず、約束を守り、日々の生活を害しなければ、領主・支配者が誰であれ気にはしなかった。
 約束を守らない大名に対して、一揆や打ち壊しを行って約束の再確認と履行を強要し、落首を書いて辛辣に批判した。
 大名は、一揆や打ち壊しを叛乱や暴動とは見做さず、流血を伴う武力鎮圧ではなく話し合いによる穏便な非暴力的解決に努めた。
 もし、暴力的鎮圧を行えば、幕府から失政を咎められて、領地を没収され、追放され、他家預かりとして死ぬまで監禁された。
 権力や権力を笠に着て横暴を極める支配者に対しては、我慢し堪え耐えるが、図に乗って限度を超せば容赦なく反撃し、態度を改めなければ追放するか殺した。
 庶民は、改革・変革・改善・改良を求めたが革命を好まず、大陸の常識のような自分が新たな支配者・領主になろうという気はなかった。
 庶民は、中華の易姓革命キリスト教の宗教革命もマルクス主義的反宗教無神論の人民革命も関心はなかったし、自分の生活を破壊する危険な思想・宗教として毛嫌いしていた。
 日本皇室が庶民に滅ぼされず存続できたのは、早い時期に、政治権力と宗教権威を捨て空気のように庶民の実生活で人畜無害化したからである。
 公家や武士、藤原氏、源氏、平氏、足利氏、織田氏、徳川氏など数多の実力者が、軍事力や財力で日本皇室を凌駕しても、現天皇を排除して自分が新たな天皇に即位しようとはしなかった。
 庶民は、曖昧やいい加減を好み、大陸的な政治権力や普遍的な宗教権威を受け入れる意思はなかった。
 公家であろうが武士であろうが、平氏であろうが源氏であろうが、独裁者であろうが専制君主であろうが。
 日本人でなくとも、中国人であろうが朝鮮人であろうが、モンゴル人であろうが、ロシア人であろうが、アメリカ人であろうが、白人であろうが、黒人であろうが、それこそ人間でなくてもサルやウマやシカや架空の存在でも気にはしなかった。
 神道であろうが、仏教であろうが、キリスト教であろうが、イスラム教であろうが。
 江戸時代。徳川幕府は、庶民と大名が一体化しないようにする為に中小大名の国替えを頻繁に行った。
 外敵の心配ない時代は、庶民を放置して置けば良かった。
 が、
 ロシアの北方領土蝦夷地(北海道)への侵略が現実化した時、江戸幕府は庶民に国家や民族を認識させる啓蒙を行わなかった。
 そして。ロシア軍艦の対馬武力占拠が起きても、庶民に危機感を持ったせる意識改革を行わず、イギリスの軍事力を頼り小手先の外交でやり過ごした。
 討幕、明治維新は、庶民が、ロシア人を新たな領主として受け入れ、ロシアの軍事力に靡く事を防ぐ為に起きた。
 そして。民族意識を大改造する為に、皇国史観や愛国教育が初等の義務教育として強制された。
 一部の庶民は、国防の為の徴兵制や直接税そして自由選択のない強制的義務教育に不満を抱いて暴動・一揆を起こした。
 庶民意識がハッキリ現れたのは、GHQの間接統治というウソで直接統治を受け入れた戦後の姿である。
 日本に進駐したアメリカ軍は、降伏を拒否し玉砕や特攻などで徹底抵抗した日本人であっただけに恐怖に近い緊張感を持つて上陸したが、余りにも柔順なだけに拍子抜けした。
 軍部が何故戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けず」と叫んだのか、それは幕末・明治維新いらい抱いてきた誰にでも靡く庶民意識への警戒心からであった。
 逮捕された日本人犯罪者は、尋問する刑事の温情にほだされて罪を認め、刑事に好かれたいが為に知り得た事を聞かれもしないのに全て包み隠さず自白した。
 庶民は、自分の生活や命が脅かされない限り抵抗活動・レジスタンス運動を起こさない。
 庶民を動かす為には、全ての退路を断ち、絶体絶命の状況に追い込み、目の前に唯一の望み、生きる術を与える事であった。
 庶民は、生真面目な働き者ではなく、絶えずさぼって遊ぼうとする怠け者であった。
 庶民が好んだのは、男女の色恋物語や商売人や職人の苦労話と敗北して滅んだサムライ・武士の惨めな話で、サムライや武士が成功し栄誉栄達した英雄談は関心が低かった。
 サムライや武士の滅びの美学は、暇な庶民の時間つぶしの話の種に過ぎなかった。
 庶民は、滅びの美学に興味も関心もなく、敗れて滅んだ者には同情し、勝って栄えた者には軽蔑していた。
 日本の庶民意識とは、大陸的な奴隷・下僕・家僕意識ではないし、中華(中国・
朝鮮)的な家奴・農奴意識でもない。
 庶民意識は、どこまで行っても何があっても「何とかなるさ」と「何とかする」というポジティブで、ネガティブではない。
 ポジティブ思考も、自然災害多発地帯で生き残る知恵であった。
 現代の日本人が、昔の庶民であるのかそれは分からない。
 いずれにせよ、日本人は庶民であってサムライ・武士ではなく、支配者・権力者が日本人でなくても命や財産、生活に不自由がなければ気にはしない。
 その典型の例が、GHQによって強制的に押し付けられた第九条の平和憲法である。
 庶民は目の前に有るモノにしか価値を見出さない頑なさから、欧米人みたいに無い所に新しいモノを作り出すという行為を無駄な努力として軽視した。
 「有るモノのみを有効に無駄なく利用して生活する」と言う発想は、自然災害多発地帯の生きる知恵である。
 庶民は、領地や俸禄を貰いながら移動するサムライ・武士ではなく、自然災害多発地帯に留まっり、辛抱強くき、我慢強く、仲間内でのお互いの絆を大事にして生きていた。
 「場の空気」を読むとは、自然災害多発地帯を生き抜く大事な心得であった。
 そこで求められる強いリーダーの必要な素質は、異なった手前勝手な意見を話し合いで集約し、場て場の空気を一方向に向ける調整である。
 自然災害多発地帯ではゆとりは全くなく、悠長に構え鷹揚に時間を浪費する事は許されず、せっかちに短時間の内に白黒をハッキリ決断し、即行動を起こし、作業を続けながら修正を加え、寸分違わず仕上げなければ、全てが無駄となって全滅するしかなかった。
 そうした暴走しやすい庶民意識を沈静化させていたが、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の日本皇室である。
 最高にして唯一の祭祀王である日本天皇は、原子炉の制御棒的役割を果たしてきた。
 庶民は、それ故に日本天皇を敬愛し、日本皇室に畏敬の念を抱いて大事に守ってきた。
 人間の知恵や人力を総動員しても防ぎきれない数多の自然災害を目の前にし、自然災害の向こう側の人智を越えた存在に恐怖してその鎮撫を、将軍の御威光ではなく天皇の後威徳に頼った。
 生身の人間である日本天皇が、幾ら祈っても数多くある自然災害で一つもなくならない事を知りながら、祈ってくれているという事実だけを信じる事で安心した。
 天使創造で全知全能の唯一の絶対神でもなく救世主でもない日本天皇には、数多くの自然災害を一瞬で消し去る事も、死んだ全ての人間を生き返らせる事も、重傷で苦しんでいる人間の傷を一瞬にして癒やす事も、それら多くの奇跡を起こす事は出来なかった。
 自然災害多発地帯で生きる術は、性善説で信じきる事である。
 日本天皇は、唯一の庶民代表として、多発する自然災害を鎮める為の祈りを捧げた。
 日本皇室は、庶民に守られていたがゆえに滅びる事がなかった。
 太平洋戦争末期。心ある庶民は、軍部に騙され強要されたわけでもなく、昭和天皇と日本皇室の国體を守護し残す為に玉砕を覚悟した。
 庶民(日本民族)ではなく人民(共産主義者)であろうとした反天皇反日的日本人は、昭和天皇を殺し、日本皇室を廃絶し、日本に平和をもたらそうとした。
 それ故に庶民は、共産主義を信用せず、共産主義を毛嫌いする。


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