☰65〕─1─世界から、日本国皇帝・第122代明治天皇崩御に寄せられた弔辞と賛辞。明治45年・大正元年。~No.203 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本のナショナリズムの誕生。
 開国(1854)を論じる時、アヘン戦争(1840)やペリー提督の来航(1853)を取り上げて、1806年のレザノフ提督が引き起こした文化露寇事件(北辺紛争。フヴォストフ事件)を取り上げなければ無意味である。
 長州藩の倒幕(1867)を論じる時、1861年2月のロシア軍艦による対馬軍事占拠事件を取り上げねば無意味である。
 外国の侵略から日本を守る為に、強力な軍隊を持った強権的中央政権が求められていた。
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 日清戦争日露戦争韓国併合そして太平洋戦争の発端は、ロシアの日本侵略である文化露寇事件(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)と対馬軍事占拠事件であった。
 日本の大陸に於ける軍事行動は、領土拡大の侵略戦争ではなく、祖国防衛の自衛戦争であった。
 最大の元凶は、日本を侵略し、日本から領土を軍事力で強奪しようとしたロシアであった。
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 日本と清国(中国)との戦争は避けられなかった。
 清国は世界が恐れるアジア一の軍事大国で、日本は弱小国であった。
 日本人は中国人を恐れていたが、中国人は日本人を軽蔑し差別していた。
 日清戦争(1894)を論ずる時、1886年8月の清国海軍水兵による横暴な長崎騒動事件を取り上げなければ無意味である。
 日清戦争のお陰で、1000年以上にわたって中華帝国の惨めで哀れな属国であった朝鮮がようやく独立できた。
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 日露戦争(1904)を論じる時、1900年のロシア軍兵士によるアムール川虐殺事件と清露対日軍事密約を取り上げなければ無意味である。
 清国は、日本に対して復讐戦を計画していた。
 日露戦争のお陰で、白人キリスト教徒による植民地拡大時代が終わり、過酷な植民地支配下にあった有色人種は白色人種支配からの独立気運が起きた。
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 日韓併合を論じる時、朝鮮が日本を朝鮮半島から追い出す為に、清国(中国)、ロシア(ソ連)に味方・協力して戦争を誘発した事と、戦争で日本を滅ぼせなかった次の一手として新たに同情してくれる欧米列強を探した事を明らかにしないと無意味である。
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 日本の軍事行動の大半は、外敵から祖国を守る為の自衛行動であった。
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 日本を守るのは、日本人だけしかできなかった。
 日本人が望まなければ、日本国は消滅し、日本民族は死滅した。
 日本を守った象徴が、靖国神社であった。
 靖国神社を否定すれば、日本国も日本民族も消える。
 日本が消えて喜ぶ日本人が、現代日本に増えている。 
 日本人から、「日本の心」が急速に消えつつある。
 反靖国神社の日本人が、真っ当な事を口走っても、それは口先だけの無味乾燥の綺麗事で、「日本の心」は微塵もない。
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 1912年7月30日 第122代明治天皇(59歳)が崩御した。
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 アメリカ合衆国第27代大統領タフト「先帝陛下は非凡な統治者であった。政治における陛下の天才は、将軍、提督、または政治家の任用に示され、彼等はことごとく日本国民の為に光栄をもたらした」
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 ニューヨーク・トリビューン紙「日本先帝陛下の業績は、近代世界のどの大帝王にも劣らない。それは陛下自身よりも寧ろ補弼した元老の功績に帰すべき事かもしれないが、陛下はその補弼者の選任に欠くべからざる才幹を有し、かつ一旦価値を認めて選ばれた補弼者に対する信任は、終始不変のものであった」
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 ニューヨーク・タイムズ紙「偉大な目的を有する日本の改革が、一に先帝陛下の治世中に鼓舞されたという単純明白な事実によって、陛下が英明有為の君主であられた事は疑いようもない。陛下が16歳で即位した当時の日本は、薔薇戦争時代の英国よりも弱体化した状態だったが、今や世界強国間に並立する地位にまで勃興した」
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 ニューヨーク・イーグル紙「不思議な事に日本人は、自らの政治家または軍人としての功績を、天皇の御稜威に帰する。東郷提督は対馬海峡における全勝を、先帝陛下の御威徳なりと公言し、乃木大将もまた旅順の露軍陣地を攻めた兵士を感奮興起されたのは陛下なりといい、黒木大将は鴨緑江の横断を、太山大将も奉天の戦勝を、陛下の御稜威に帰した。
 西洋人はかかる日本人の天皇に対する敬仰心の極端な表明を、概ね嘲笑か冷笑で捉え、これが単に封建時代よりの礼式ではなく、他に類のない国民的特性である事に気付かない。日本に於いて元首は超人格的な存在であり、国家的進歩は一に元首による、というのは、社会のあらゆる階級に共通する認識であった」
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 ロシア帝国の新聞各紙
 「封建時代、将軍と大名は天皇の御名を借りてほしいままに行動したが、形影でしかなかった天皇は質素な生活ぶりで、宮居は雨漏りを防ぎ兼ねる事があり、皇族は生活に窮して商人より借金する事も度々であった。
 我が国の研究者には『ミカド』は唯君臨するのみで統治する権力を有せず、その業績に見るべきものはない、とする者がいたが、先帝陛下が時代の精神を会得して改革の時期を選定し、有用の人材を登用して改革を成し遂げた傑出せる帝王であった事に疑いはない」
 「幕府の政権奉還以降、旧日本の独裁主義は滅びた。この滅亡を目撃した先帝は、御自身の権力を制限して、国家の権力を拡大し、新たな発展の為に衆議制度を採用した。寡頭政治より専制政治を経て立憲政治に到る。これが日本が主宰者と共に経過した経路である。日本は短日月を以てよく他国が数十年を要した変遷を経過した。日本は即ち日本式文明を創建したのである」
 「日本中興の偉大な事業を達成した大久保、伊藤を主とした進歩派と『ミカド』一人の事業を区別するのは困難だ。だがこれだけは断言できよう。先帝陛下の英才と見識がなければ、日本国な刷新は数十年以上遅延したに相違ない。
 今や対等の一員として先進文明国の仲間入りを果たした日本帝国は、決して全ヨーロッパの平和を脅かすものではなく、新たな創造者として世界の平和場裡に現れた。日本における立憲君主の先帝陛下は、文化及び経済の自由なる発展という平和的基礎の上に、日本帝国を確立したといってよく、我々が陛下の英明を長く歴史にとどめ様とする所以は、まさにこの点に存するのである」
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 日本のお陰で、中国は辛亥革命が成功した。
 もし。日本がいなければ、辛亥革命は起きっず、中国は近代化かできなかった。 
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 北京・国光新聞「一世の英雄にして、三つの島からなる国家を、世界第一等の舞台に導いた日本天皇は、蜻蛉の様な国土、龍虎の様な国運、五千万の大和民族を後に残して、忽然と去って行った。記者は追悼の念鬱勃として止む能わず、国人に代わって弔辞を述べる。
 貴日本天皇ありて後、開国の潮音は鎖国の甘夢を驚醒し、倒幕の壮劇は、我が国億兆の革命の決心を引き起こした。今我が国人は皆主権を有する国民であり、吾人が述べるのは政府に非ず国人の弔意であって、中華民国の意思を代表するものである。一衣帯水にして文字を同じくする国の元首が龍に乗じ去ってまた復(かえ)らずという。どうして同情を表し声を同じく哭(な)かずにおられようか。願わくば東隣の兄弟よこれを鑒(かがみ)とせよ」
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 北京・中国日報「或る人はいう。吾が国が革命によって民主共和国になった事に、日本は影響を被らずにいられないであろうと。この説は当たっていない。日本の天皇は独り政治上の元首のみならず、全国社会宗教上の主宰で、尊祟の念は国民の祖先から受け継がれたものであり、その中に蓋し人情事理があって、政治論だけでこれを概括する事は出来ない。
 之により是を観れば、将来地球上の万国が民主共和国になろうとも、日本の君主政体は必ずや尚永遠に東洋の三島に独立して残るであろう。感嘆すべき事ではないか」
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 フランス。ラ・ルビュー紙。8月15日「陛下の治世は日本史上最大の治世であるとともに、世界史上最大の治世の一つ」
 オーストリア。ノイエ・フライエ・プレッセ紙。7月30日「崩御された日本の天皇陛下は、世界に於ける最大の偉人の一人だった」
 アメリカ。ニューヨーク・タイムズ紙。7月30日「実に陛下の治世は世界史上においてほとんど比類のないものだった」
 ロシア。オケアンスキー・ベストニク紙。7月31日。「小国で世界ではあまり知られていなかった日本は、天皇の幸運な治世下で発展し、その名を世界に轟かせ、世界的一等国の間にその位置を占めるに至った」
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 靖国神社は、1869(明治2)年に、明治天皇の「我が国の為に尽くして切れた人々の御霊は、国自ら永久にお祀りすべきである」との聖旨で創建された。
 現代の国内外で大問題とされる靖国問題は、この時から始まる。
 多くの国や幾つかの宗教団体が、靖国神社の存在を否定し廃止を求めている。
 特に、キリスト教会は靖国神社を目の敵にしている。
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 夏目漱石「過去45年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史」
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 大正3年 宮内省編修局は、大正天皇の命に従い、『明治天皇紀』の編纂を始めた。
 編集局総裁金子堅太郎子爵は、昭和8年に完成した本紀250巻と画巻1巻を昭和天皇に奉呈した。
 金子総裁は、昭和天皇に、明治天皇が日清・日露両戦争の開戦に渋り寧ろ外交交渉による平和的解決を強く望んでいた事を上奏した。
 昭和天皇は、満州事変勃発と国際連盟脱退によって日本が好戦的になっている事を憂い、軍部の暴走を止めるべく、「明治天皇が開戦に反対し平和的解決を望んでいた」事について鈴木貫太郎侍従長に下問した。
 「金子が今日省こうといっている、明治天皇が戦争になる事をお好みにならず平和裡に解決したいといわれた思し召しこそ、天皇の平和愛好の御精神が現れていて、これこそ後世に伝うべきであり、寧ろ年代記の中に特に書き入れた方が良いのではないかと思うが、どうか」
 明治天皇が、開戦に反対し外交による平和的解決を望んでいたという話は、『明治天皇紀』にそのまま残された。
 明治天皇は、日露戦争開戦を裁可したその日の夕刻に、近臣に胸の内を吐露した。
 「今回の戦争は朕の志ではない。然れども事既にここに至り、これを如何ともし難い。事万一蹉跌した時、朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に相対する事ができよう」
 御製
 「をさしめる八島の国の外(ほか)までも 静かなる世をわが祈るかな」
 「よもの海みなはらからと思ふ世に など荒波のたちさわぐらむ」
 「あさみどり澄みわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな」
 「むかしよりためしまれななる戦(たたかい)に おほくの人をうしなひしかな」
 「くにのためたふれし人をおもひつつ ねたるその夜のゆめにみしかな」
 「はからずも夜をふかしけりくにのため いのちをすてし人をかぞへて」
 「たたかひに身をすてつる人多きかな 老いたる親を家にのこして」
 「年へなば国のちからとなりぬべき 人をおほくも失いにけり」
 ドナルド・キーン天皇勅語に、繰り返し登場する主題が一つある。それがあまりに度々なので、これこそ天皇の最も深い信念の表現に違いないと考える誘惑に駈られる事がある。それは、平和への願いである」(『明治天皇』)
 セオドア・ルーズベルト大統領は、明治天皇の平和への想いに感動して、講和条約の調停役を引き受けた。
 セオドア・ルーズベルトが日本に感動したのは、新渡戸稲造の『武士道』よりも、自国だけではなく世界の平和を祈り自国民だけではなく全人類の安寧を祈念する明治天皇の「御製」であった。
 歴代天皇は、天地の神々と祖宗の神霊への「祈り」を「言霊」として御製に籠めた。
 明治天皇は、生前に約10万首の御製をお作りになっていた。
 日本の和歌は、短詩ではなく祈りであった。
 昭和天皇は、平和を望んでいた明治天皇に習って、日米交渉で戦争回避する事を切望した。
 『明治天皇記』全12巻と索引1巻の公刊は、昭和53年であった。
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 大正9年 代々木練兵場の一部に10万本以上の木が、国民の勤労奉仕で植林されて70万平方メートルの広大な明治神宮の森が完成した。
 日本民族にとって、伊勢神宮出雲大社明治神宮靖国神社は特別な存在である。
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 ウェストファリア条約は、不毛な宗教戦争による悲惨な虐殺を教訓として、それぞれの領地内での宗教的選択の自由を認め、如何なる理由があろうとも敵国の信仰に干渉してはならいと定めた。
 宗教不介入、それが世界常識である。



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