☲5〕6〕─1─台中事件と治安維持法改正。昭和2年~昭和4年~No.8No.9No.10No.11No.12 @ 

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 治安維持法改正はキリスト系朝鮮人テロリストと共産主義勢力の反天皇同盟を恐れたからである。
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 日本国内の朝鮮人人口の急増は、反日朝鮮人や独立派朝鮮人が増えた事を意味し、そして昭和天皇を暗殺しようとする朝鮮人テロリストが多数国内にの潜入した事を意味する。
 労働不足を補う為に反日朝鮮人労働者を大量に入国させる事は、朝鮮人犯罪者による凶悪事件を増やし、治安を悪化させ、社会不安の元凶であった。 
 貧困家庭出身の朝鮮人を単純労働者として受け入れると、日本人下層階層の仕事を奪い、日本人失業者を路上に放り出す危険性があった。
 日本は、朝鮮人テロリストや犯罪者の不逞朝鮮人朝鮮人労働者の引き起こす社会問題から、朝鮮人の入国を制限する必要があった。 
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 萩野富士夫「警備全般について治安維持と静謐保持を大義名分として全民衆を幾重にもさまざまな角度から掌握し、監視下においていった。そこでは民衆は常に警戒される対象としてあり、特に在日朝鮮人被差別部落の人々・精神病者などは、ただそうであるがゆえに否応もなく一段と厳しい監視の下におかれたのである」(『昭和天皇と治安体制』)
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 朝鮮の高級百貨店・和信の上客は、6割〜7割が朝鮮人であったと言われている。
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 熊本県天草諸島には、隠れキリシタンが多く住んでいた。
 信者達は、如何に貧しく苦しくとも助け合い、ひもじくとも分け合って生き、決して間引かなかった。
 その為に人口が減る事なく、痩せた土地で養える以上の人間が増えすぎた。
 江戸幕府が倒れ鎖国政策が廃止されるや、隠れキリシタン達は貧しさから逃れる為に海外に生きる道を探した。
 女性達は、からゆきさんとなり、北はシベリアから南は東南アジアまで、さらに遠くではアフリカ大陸やアメリカへと渡り体を売って稼ぎ、その金を故郷の家族の元に送った。
 これが、世界で嫌われる日本の娼婦達であり、日本人慰安婦の実態である。
 売春を禁止している倫理観の強い国際社会は、日本の慰安婦を「性奴隷」と蔑んでいる。
 日本各地から売春婦・慰安婦として海外で体を売っていた女性達は、故郷に帰れず、普通の生活に戻れず、天草のからゆきさん達を頼って移り住み、村人達と触れ合う事なく、身寄りもなく頼るあいてもなく孤独に、誰に看取られる事なくヒッソリと死んで行った。
 「あそこには一人のからゆきさんが住んでおったが、数年前に亡くなってしまって、今は誰も住んでいない」
 日本人慰安婦は、国家から見捨てられ、日本人から汚らわしい最低な人間と蔑まれ差別されて、寂しく死んだ。
 その数は、不明である。
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朝鮮人テロリストによる皇族暗殺計画
 朝鮮総督府警務部は、朝鮮人の日本への密航者が急増し、日本国内の犯罪も増えた為に、朝鮮人に日本姓名を名乗らせる事に反対した。
 1927年 第一回南京事件中国共産党に煽られた革命軍兵士と南京市民は、南京にある諸外国の領事館を襲撃し、各国の居留民に暴行を加え7名を惨殺し、略奪した。
 中国人の兵士と暴徒は、金陵大学副校長ウィリアム博士と震旦大学のフランス人教師を虐殺し、頭や髭から陰毛まで焼き、大腿部を切断し、遺体に凌辱の限りを尽くして辱め、そして遺棄した。
 被害者が受けた凄惨なる状況は、筆舌に尽くし難いほどに陰惨であった。
 歴史的事実から、中国人の本性といってもいいものであった。
 日本政府と外務省は、非暴力無抵抗主義のもと中国内政不干渉政策を貫いていた。中国人暴徒によって多くの日本人居留民が襲撃されて、暴行や強姦などの被害を受け、そのうち幾人かが不幸にも殺害されようとも、主権国である中国政府の誠意ある対応を信用して静観した。
 日本軍部は、話し合いによる平和的解決を最優先する政府の厳命に従って、現地部隊に対して武器の使用を厳禁とした。
 現地部隊は、他国の居留民を凶悪な中国人暴徒の中に置き去りにして、日本人居留民のみを助けて南京から逃亡した。人間にあるまじき行為として恥じた将校は、負傷者を見捨てる事に義憤を感じ、政府への抗議から割腹自殺した。
 アメリカとイギリスは、自国民が被害を受けた為に、今後の見せしめとして共同で報復攻撃する事を日本に提案した。
 日本は、「報復や復讐では問題は解決しない」との立場を取り、混乱をきたしている中国を追い詰めるのは得策ではないとして、制裁目的の共同出兵を拒否した。
 アメリカとイギリスは、日本を「愚劣な裏切り者」と軽蔑し、日本資本が極秘に中国と手を組んで中国市場から欧米資本を放逐しようとしていると警戒した。
 中国は、日本との善隣・互恵の友好を求めるとの公式発言を繰り返しながら、裏では日本を中国から追放する為にアメリカやイギリスに急接近した。
 世界常識は、如何なる理由があれ、負傷した仲間・同盟者を敵の中に置き去りにして、一人で逃げ出す者を「最低の卑怯者」として軽蔑した。自分のみが助かる為に絶望的窮地にある仲間・同盟者を見捨てる者を信用しない、というのが人間社会での常識中の常識であった。つまり、一緒に汗を流して苦労し、共に命を的にして戦って血を流さない者は、信頼にたる者ではなかったのである。
 日本の悲劇は、一国平和主義を国家戦略として国際信用をなくし、非暴力無抵抗主義という信念で行動して国際社会で孤立化した事から始まる。
 中国は、「謀」を文化として、「敵を欺くなら、まず味方から欺く」を教訓としていた。中国人は、にこやかに日本人との友好・善隣・互恵を望んでいるように見せながら、その実は日本人の寝首を掻く機会を虎視眈々と狙っていた。中国は、日本に対して対等な関係を求めてはいなかった。中国人は、自分の利益の為に日本人を利用し、大金を貢がせる為に日本人に仕事を与えたに過ぎない。厳格な上下関係を神聖視する正統派儒教価値観では、中国人は主人であり、日本人は使用人・奴隷に過ぎなかった。そして、中国は日本の生殺与奪権を握っていると確信していた。
 中国社会は、法秩序が存在しない「人間不信社会」であり、脳天気に人を信用する者は全てを失うか殺される実力至上の「弱肉強食社会」である。同時に、才能・能力があれば大金を得て大成功できる無限の可能性を秘めた「ビジネス社会」でもある。
 中国における日本租界は、欧米列強の租界とは違い、戦争に関係なく平和的に友好・善隣・互恵のもとに造られた。宜昌、武昌の租界は、日本の資本投資と工場誘致と技術移転の中国側の強い要望のもとで新設された経済特区であった。
 日本政府は、友好国として政治、経済、司法、軍事、教育、社会制度などの多方面に優秀な人材を顧問として派遣し、なるべく伝統文化を壊さない様に配慮しながら中国の近代化に貢献した。
 日本財界も、中国産業の発展の為に人材育成に協力し、莫大な資金を融資して数多くの工場を新設して、技術を持たない文盲に近い中国人難民を好条件で大量に雇用した。
 金儲け主義の日本人経営者は、個人の民益の為に国際的国益を無視し、中国の排外的民族主義運動を利用して、各地にあった欧米資本の工場を強引に接収した。
 右翼・右派は、白人キリスト教徒からアジアを取り戻す為にイギリスのアヘン戦争以来の中国政策を非難し、中国人の諸権利を回復する為に反英運動を支援していた。
 日本側の友好的努力は、中国人に感謝をもって歓迎されていると信じ、白人に対する排斥の様な排日運動は起きないと確信していた。
 「お人好し」の日本人は、同じアジア人として、同じ人間として、友情を持って「話し合えば」かならず理解し合えると妄信した。
 その「甘え」の体質が、日本に悲劇をもたらした。
 弱い人間ほど、事なかれ主義的に、物事を自分に都合の良い方向に解釈する願望的「甘え」を持っている。
 強い人間が持っているのは、自分への「甘え」ではなく、他人を従える豪腕への過信から来る「油断」である。
 後の真珠湾奇襲攻撃は、軍事大国アメリカの小国日本への油断から成功した。アメリカ軍は、日本軍が宣戦布告前の奇襲攻撃で戦争を開始する事を熟知していた。
 中国人は、日本人に感謝しないどころか、各地で排日暴動を起こしていた。
 日本人居留民は、友人と信じ切ってい中国人から暴行を受け、財産を放棄して逃げ出していた。抵抗しなければ助かると「甘い」考えの日本人は、中国人に要求されるがまま全ての財産を差し出し、そして猟奇的に虐殺された。
 日本人の遺体は、女も子供も関係なく、中国人によって見るも無惨に切り刻まれていた。
 それが、死後なのか、生前なのかは、不明であるが。
 中国人には、「死者への尊厳」や「魂への敬意」といった感情は微塵も持ってはいなかった。
 相手が日本人なら、なおさら抱く事はなかった。
 中国人は、自分の面子を大事にして相手の事は気にはしないし、自分の面子を守る為なら当然の権利として相手を殺した。
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 日本人と中国人との関係は、何時の時代でも変わる事はない。
 中国人は、欧米人とは妥協して共存を図るが、日本人とはけっして妥協せず対等を求めない。
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 2月 朝鮮独立派は、京城反日的民族共同戦線組織である新幹会(会員4万人以上)を結成し、東京、京都、大阪、名古屋など日本の主要都市や中国各地に149の支部を置き、日中両国の共産主義者勢力と連帯した。
 5月には、日本の婦人運動を真似て女性解放を目差す槿友会(きんゆうかい)を結成した。だが、知識層は、性差別は民族の歴史的伝統であるとして女性解放運動に猛反対した。
 朝鮮人は、日本人以上に各種の差別を容認の儒教的価値観を大事にしていた。
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 3月31日 大阪朝日新聞(朝鮮版)「内地へ出稼ぎの鮮女工を誘拐
 内地への出稼ぎの朝鮮人女工は労働賃金が安く、よく働き、その上身体が丈夫だというので各工場で歓迎され、近頃鮮内より大阪方面に出稼ぎにゆく者が増加したが、内地への渡航は中々むつかしく、容易に渡航できないのに目をつけた朝鮮人の悪周旋屋は、内地へ行けば沢山の金が儲けられると、棚から牡丹餅(ぼたもち)式のことを並べ、鮮内の工場で働いている工女等を偽き、巧みにこれを誘拐して内地へ連れ込み、朝鮮人相手の飲食店等の曖昧屋に売り飛ばし、金儲けをする者があり、大阪府警察部から総督府警務局宛にこれ等悪周旋屋の取締り方を依頼してきた。
 これ等の悪周旋屋はお互いに連絡をとり、鮮内各地から女工を誘拐して大阪付近に連れ込むので、彼等の毒牙にかかりドン底生活にあえいでいる朝鮮人女工は大阪だけでも百数十人にのぼっていると」
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 7月30日 福岡日日新聞(夕刊)「米国の母を尋ねて密航した14歳の鮮童」
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 9月11日 福岡日々新聞「渡来した鮮女を拐(かどわか)して無理に娼婦へ」
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 10月30日 大阪毎日新聞(朝鮮版)「鮮人女で初めて判任官となる金玉仙さん」
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 12月 「方面委員執務心得」。朝鮮総督府は、朝鮮の社会的弱者を救う為に、日本国内で普及している方面(民生)委員制度の導入に当たって、試験的に京城府で始めた。

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*不法に密上陸する朝鮮人犯罪者に苦慮する日本 
 1928年 日本は、絶えず、朝鮮人の渡日を規制していた。内務省は、日本人労働者の雇用を守る為に朝鮮人労働者の不法上陸を阻止すべく、朝鮮の出発港湾警察と日本各地の沿岸地区警察を総動員して水際作戦を展開した。だが、周囲を海に囲まれた島国の日本では、不法上陸を完全に取り締まる事は不可能であった。
 スターリンユダヤ人)は、農業の集団農業化を含む第一次五ヵ年計画を発表した。農村は、農地を党に没収され、農産物を外貨獲得の為に強制的供出させられた為に、収穫を拒否した。共産党は、計画に協力しない農民を反共産主義者として弾圧して、シベリアに流罪にするか処刑した。共産党エリート(大半がユダヤ人)にとって、人民とは都市労働者の事であり、非ユダヤ人の農村労働者は農地を所有する資産家として可能な限り搾取する農奴であった。
 ロシア帝国において、ユダヤ人農民は農奴として土地所有が禁止されていた。
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 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。
 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
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 1月25日 福岡日日新聞(夕刊)「三鮮人密航」
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 3月15日 第一次日本共産党員の大量検挙。 
 3月21日 大阪毎日新聞(朝鮮版)「朝鮮人渡航を阻止しても駄目」
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 4月 朝鮮総督府は、漢字とハングル混じりの朝鮮語で「京城府方面委員提要」を作成し、住民の事情に詳しい朝鮮人を方面委員に任命した。
 言語として、ハングルと漢字混じりの朝鮮語を普及させたのは朝鮮総督府であった。
 両班は、儒教などの古典的漢籍こそが大人の教養であると信じ、ハングルは身分卑しい下賤が読む文字であると軽蔑していた。
 さらに、姓を名乗る事は両班の特権であり、庶民には姓を名乗る事は禁止されていた。
 朝鮮人全員に中国式一字姓を持つ事を許したのも、朝鮮総督府であった。
 この時代。日本は朝鮮人に日本姓名を持つ事は、朝鮮の自主性を傷つけるとして強要せず、選択は本人の自由としていた。
 朝鮮総督府は、日本人では朝鮮語がわからない為に、住民への細やかな民生行政を行うには朝鮮人の協力が不可欠であるとして現場は朝鮮人に任せた。
 朝鮮人協力者には、意思疎通を行う為に、行政に参加する者には日本語を必修とした。
 一般の朝鮮学校では朝鮮語と日本語を教えたが、特殊な学校では校内では日本語のみを話す事を強制した。
 現代日本でも、校内では英語のみを話す事を決めている特殊な高校学校がある。
 方面委員は、年々増員され、28年4月では東部と北部の二方面計12人であったのが43年には八方面246人になり、45年には1,000人を超した。
 戦争の拡大によって日本人の多くが徴兵されて戦場に送られた為に、人手不足となり、その穴埋めに多数の朝鮮人が官吏や警官に採用された。
 朝鮮人若者における日本軍への志願が増え、激戦によって戦死する朝鮮人兵士も増えた。
 朝鮮総督府は、朝鮮内の反日気運の盛り上がりを防げた為に、戦死した遺族や負傷して帰還した家庭への配慮と優先的配給に心掛けた。
 朝鮮人の慰撫は朝鮮人に任せたが、朝鮮のあくせく働く事を蔑視する風習が、物資不足に苦しむ軍国日本を悩ませ、重い足枷となった。
 方面委員座談会『朝鮮社会事業』「実に朝鮮に於きましては古来の習慣と申しますか、良くない通弊と申しますかどうかすると背負ってやれば抱いてくれ、抱けば負ってくれと言う様な癖が現在まであるようであります。また一族の中に成功したり金を持っているような者があると、皆そこに行って寄って懸かって食べる、無心を言うという習癖が現在も無いではないのであります」
 「朝鮮の悪い習慣として、自分の子供が働く様になったとか、労働者でも四十四五から五十にもなれば大概遊んでいる。この熱い時にはそういう者が五十人百人と集まって木の陰などでぶらどうどう遊んでいる。これは時局柄大きな問題であると思います」
 朝鮮に於ける強請りたかりは民族的習性で、日本政府が支給した戦死者遺族への恩給や負傷者家族への手当が、家族や親類にむしり取られていた。
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 5月14日 台中事件。昭和天皇の后である香淳皇后の実父久邇宮は、台湾の台中で公務中に朝鮮人テロリストに襲われるが、警護官が身を挺して庇ったお陰で助かった。台湾総督上山満之進は、警備責任者として辞任した。翌29年1月27日 久邇宮は台湾で感染した風土病の一つであるチフスの為に逝去した。その真相は、不明な点が多々ある。
 中国は、何時の時代でも、不衛生な為に世界有数の風土病による疫病大国であった。
 中国人は、反天皇抗日であり、当然、天皇及び皇族の暗殺を間接的に支援していた。
 朝鮮人テロリストは、天皇よりも警護の弱い皇族を格好の襲撃目標としていた。
 共産主義者日本人は、当局の弾圧によって追い詰められた為に、朝鮮人テロリストと反天皇闘争で手を組んだ。
 5月31日 京城日報「海女の逆移出」
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 6月 総督府は、朝鮮人テロリストを追い詰める為に改正治安維持法を公布した。独立派知識人は、死刑を含む改正治安維持法を非人道的悪法であると勇気を持って反発した。
 6月29日  治安維持法中改正を公布する緊急勅令。
 最高刑を死刑とする。1929年3月5日 衆議院で事後承諾案可決。
 国體を守ろうとする日本人にとって、朝鮮人テロリストと共産主義者が共闘する事を恐れた。
 7月3日 全国の警察署に特別高等課(特高)設置。
 7月24日 各地裁に思想係検事(思想検事)を設置。
 11月 満州反日朝鮮人は、アメリカの同胞からの資金援助を受け、東満州に高麗革命士官学校を開設した。ソ連軍は、反日勢力を強化する為に、極秘にゲリラ戦の専門家を高麗革命士官学校に派遣した。

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*不法上陸者・朝鮮人労働者が、失業中の日本人労働者の仕事を奪った。
 1929年 金佐鎮は、無政府主義者による反日組織・韓族総連合会を組織したが、マルクス主義者の部下に暗殺された。
 無政府主義者アナーキスト)は、社会を維持する為の道徳や良心を否定し自由と無秩序を求め、政府や政党など全ての支配機構と公権力を打倒しようとしていた。
 共産主義社会主義であるマルクス主義は、プロレタリア独裁を究極の目標とした為に、無政府主義と対立していた。
 資本主義の中にも、政府の役割を最小限に使用という無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)が存在する。
 アメリカの初期西部開拓は、中央政府に頼らず自分達で武器を持って身を守り自活するというアナーキズムの1種であるリバタリアニズムで行われた。
 1月11日 大阪毎日新聞(朝鮮版)「鮮女の内地渡航 台湾や樺太へ身売りして行くもの
 正月になってから平壌署へ内地渡航を願い出た朝鮮の女が20名近くもあり、このうち渡航を許可された者10名で、昨年より数倍の激増である。」
 2月16日 大阪毎日新聞(朝鮮版)「よく働く朝鮮娘
 豊橋市には目下朝鮮から4,000人近くの人々が来て働いているが、その7割は女で、ほとんど市および付近の製糸工場に働き、年齢14、5歳ぐらいから24、5歳までである。
 来た当座は言語が通ぜず何かと不便らしいが、直ぐに覚えこんでしまい、内地の女工より遙かによく、各製糸家は引っ張り凧で、朝鮮乙女を歓迎する。豊橋市中芝夏目製糸場では60人からの朝鮮女工のみを使用し、好成績を挙げている。賃金は熟練1日1円50銭である」
 2月19日 大阪毎日新聞「帰るに旅費なく流転の愍(あわ)れな鮮女」
 3月26日 福岡日日新聞「健気(けなげ)な志を成就した最初の朝鮮人の産婆」
 3月27日 京城日報 「密航して内地見物」
 4月16日 第二次日本共産党員の大検挙。思想弾圧は、熾烈を極め始めた。
 一部の日本人マルクス主義者は、朝鮮、満州、中国に逃亡し、日本で共産主義革命を起こす為に反天皇活動を続けた。
 5月5日 大阪毎日新聞(朝鮮版)「海上に2週間漂うて 遂に対馬に上陸した160名の潜航鮮人団」
 5月8日 大阪朝日新聞(朝鮮版)「とうとう破裂した朝鮮婦人の癇癪玉(かんしゃくだま)」
 8月4日 福岡日日新聞「密航鮮人25名 山林に潜伏中を取押えらる」
 10月24日 ニューヨーク・ウォール街で株式相場が大暴落して、世界大恐慌が始まった。解雇された、無一文となり、前途に絶望して自殺する都市のエリート・サラリーマンが急増した。責任を他人に転嫁する自我の強い者は、銃を乱射して、家族や元同僚や知人、たまたま側にいた人間を無差別に殺害してから自殺した。
 気の弱い日本の自殺は、「自分が悪かった」の自責の念から、自分ひとりか、家族みちづれの心中が主であった。日本の宗教風土は、情緒的に自殺や心中に涙を流し、その心情に心から同情して文学作品的に美化していた。
 気の強い欧米の自殺は、「他人が悪い、社会が悪い」との他人転嫁から、家族をもとよ
り他人までみちづれにした。キリスト教は自殺は「絶対神への罪」であると教えていた為に、自殺者は警察に射殺されるか死刑を望んだ。
 10月30日 光州抗日学生運動事件。日本人中学生が、朝鮮人女子学生を差別的にからかった。激怒した朝鮮人学生の一団は、報復として日本人学生を襲撃して喧嘩となり、警察官が間に入って止めた。
 プライドの高い朝鮮人は、日本以上に感情の起伏が激しく、わずかな事でも激昂し冷静さを捨てて暴動を起こしていた。
 社会主義学生組織は、朝鮮総督府の宥和策で、混乱から暴動へ、暴動から革命へと言う闘争方針が失敗した事にがっかりした。
 日本が各地で造った公立学校は、社会主義反日学生組織の養成所となり、独立運動の温床となっていた。
 プロテスタント系ミッション・スクールは、絶対神への信仰をもって神の裔・天皇の神性を否定し、祖先神・氏神を人神として祀る神社への参拝を否定した。
 11月3日 光州高等普通学校の朝鮮人学生と光州中学校の日本人学生が、町中で乱闘を起こした。他の学校の朝鮮人学生数百人が、日頃からの差別的日本人学生への不満を爆発させて、乱闘に加わって多くの日本人学生を負傷させた。警察当局は、乱闘を鎮める為に朝鮮人学生72名を保安法違反で逮捕した。
 11月12日 700人以上の朝鮮人学生は、不当逮捕に抗議して光州の町中で気勢を上げた。警察は、暴徒化するのを恐れて、258名を逮捕した。他の朝鮮人学生とその父兄や市民は、日本人学生に有利な処分に激怒した。
 この事件が半島全土に伝わるや、多くの学校の朝鮮人学生が抗議の為の学生運動に起ち上がった。参加校は、194校。参加学生は、5万4,000人以上。共産主義労働組合マルクス主義者知識人が、学生運動を支持すると表明した。市民や労働者も参加して、学生運動反日暴動に発展する様相を示した。
 総督府は、三・一独立運動や六・一〇万歳運動の再発を恐れ、早期に警察隊を投入して学生運動を鎮圧した。翌30年3月までに、学生運動を沈静化させ反日暴動への発展を食い止めた。
 警察当局は、580人以上の学生や市民を逮捕した。
 学校側は、総督府の圧力に屈して、2,330人以上の反日的学生を退学か停学処分とした。
 日本と朝鮮で、見せしめの為に、新幹会など幾つかの団体の幹部約100人を暴動に関与した罪で逮捕した。反日派は、不当逮捕と反発した。
 処分を受けた学生や知識人は、日本憎しから進んで反日抵抗組織に参加し、反日テロリストとなって日本や朝鮮で活動した。
 警察当局は、反日秘密組織の殲滅の為に、逮捕した朝鮮人テロリストを半殺しにするほどの拷問にかけ情報を聞き出そうとした。勇敢な朝鮮人テロリストは、拷問に耐えたが、拷問で受けた傷がもとで監獄の中で死亡した。
 12月 コミンテルンは、対日戦略から、朝鮮共産党日本共産党に合流する事を命じた。
 朝鮮共産党日本総局の指揮下にあった在日本労働総同盟(労総)も解体して、日本共産党の労働者部隊である日本労働組合全国協議会(全協)に合流した。
 最高幹部が金斗鎔であり、幹部に金浩永がいた。
 朝鮮人共産主義者は、反天皇反日意識が強く、日本人共産主義者のような情緒的気弱さや心情的迷いは微塵もなく、国際共産主義運動・日本共産主義革命・朝鮮人解放闘争に危険を顧みず邁進していた。
 坪江豊吉「日常活動において日本人一般に比してはるかに執拗・果敢・猪突的であり、しかもその担当する戦闘任務は、配布係、行動隊などつねに危険な第一線方面であるにかかわらず、もっとも勇敢に活躍した」(『在日本朝鮮人の概況』)
 12月8日 福岡日日新聞「弟の身を案ずる朝鮮美女」
 12月29日 大阪毎日新聞(朝鮮南部版)「釜関連絡船で怪しい鮮人」



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日本の神話伝説

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