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2022年6月21日06:00 MicrosoftNews 現代ビジネス「教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配機構説 史上たった一度、天皇が自ら出陣した理由
宇山 卓栄
日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からおもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその四回目だ。→ 三回目はこちら
日本は一時期、朝鮮半島南部を統治していた
4世紀末から6世紀、日本は朝鮮半島南部を統治していました。これについて日本や韓国では賛否両論あるものの、世界では共通の認識となっています。アメリカ、カナダ、オーストラリアの教科書、そして中国の教科書にまで、日本の半島南部支配について記述されています。
© 現代ビジネス
しかし、日本の一般的な教科書には、これについての記述がありません。「新しい歴史教科書をつくる会」による教科書で、「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」と記述されていましたが、文部科学省は2002年、「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と検定意見を付け、突き返しています。
『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本(ヤマト政権)が任那をはじめ伽耶を統治していたことが記されています。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域を指す呼び名です。「広開土王碑」には、日本は391年、百済を服属させたことが記されています。新羅と百済は日本に王子を人質として差し出し、日本は任那を足場として、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しました。
中国の史書『宋書』では、倭の五王の朝鮮半島への進出について記述されています。同書の中の「倭国伝」では、倭王讃が死に、その弟の珍が後を継ぎ、使者を派遣した際に、朝鮮半島南部一帯(「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」と記述)を支配する「安東大将軍倭国王」に任命するよう求めたとされ、宋の文帝は詔を出して、これに応じたと記されています。中国によって付けられた「倭国」という名称が辺境の野蛮な弱小国家というイメージを強く与えていますが、日本は中国も一目置く強国でした。
こうした古代日本の朝鮮統治の実態は日本の歴史教科書に記されず、教えられません。日本の学者たちは『日本書紀』に記された任那日本府がヤマト政権の支配機構ではなく、朝鮮半島に渡った倭人の共同体に過ぎないと主張しています。文部科学省はこうした見解を取り入れ、教科書に記述させないのです。
「任那日本府」は単なる倭人共同体だったのか
© 現代ビジネス 任那日本府の統治領域と想定される範囲(4世紀末)
この倭人共同体は伽耶諸国の現地豪族らと対等の立場で、彼らの連盟的会議にも代表者を送り込んでいたとされます。会議では、倭人代表者は現地の諸豪族に新羅と袂を分かち、日本と親しかった百済に味方するよう促したと考えられています。もしそうであれば、倭人の代表者はヤマト政権の意を何らかの形で汲んでいたことになります。一方、倭人共同体は現地に帰化しており、ヤマト政権の影響を受けずに独自に動いていたとする見解もあります。
韓国の学者は、任那日本府は現地の朝鮮人豪族が倭人をスタッフとした倭との連絡機関であったと主張しています。その時、倭人は現地豪族に隷属していたとも指摘されています。日本の学者も韓国の学者も、日本の影響力を過小評価しようとしているように見えます。
いずれにしても、任那日本府が現地のヤマト政権の支配機構なのか、単なる倭人共同体なのかについて、議論の分かれるところです。しかし、遠く海を渡った外地において、周辺を異民族に囲まれながら、単なる共同体レベルのものが長期的に維持できたとは常識的に考えられません。そこには、土地支配を巡る権利関係の決定など、政治的な力や武力を背景にしなければならないことが多々あったと考えられますし、純粋な共同体なるものが本国の影響力とは独立して、それ自体で存在するなどというのはあり得ない話です。
また、任那日本府が日本の学者たちが主張するような「小領域内にとどまる倭人共同体」であるならば、なぜ『宋書』に倭の五王の朝鮮半島への進出が記されているのか、整合性が取れないことにもなります。
なぜ天皇自ら出陣したのか
「広開土王碑」に記されているように、日本は391年に百済を服属させて以降、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しますが、7世紀に中国で唐王朝が成立すると状況が変わります。唐は新羅を利用して、朝鮮半島を統一させようとします。唐の勢いに圧されて、日本の影響力は排除されていきます。
強大な唐の兵力によって、660年、百済はあっさりと滅ぼされました。これに対し、日本は朝鮮半島へ本格介入するための準備をはじめ、人質として日本に来ていた百済王太子の豊璋王を擁立し、軍を起こします。
勝てる公算がないのに4万7000もの軍を送る
唐は百済討伐のために、13万もの大軍を朝鮮半島に派遣していました。新羅軍は5万とされます。合計18万の唐・新羅連合軍に、日本はなぜ挑もうとしたのでしょうか。日本は4万7000の軍を送りますが、勝てる公算はほとんどありません。
当時の斉明天皇(中大兄皇子の母)は自ら出陣しています。天皇が自ら外征に乗り出すという例は日本史上、この一件しかありません。斉明天皇率いる日本軍は大坂を船出して、瀬戸内海を通り、福岡へ向かいます。残念なことに、斉明天皇は福岡で急逝します。死因は詳しくわかっておらず、暗殺されたという説もあります。
645年の大化の改新以後、実権を握っていたのは中大兄皇子(後の天智天皇)でした。中大兄皇子は斉明天皇の朝鮮出兵政策を引き継ぎます。そして韓国中部の都市、大田を流れる錦江河口で、日本は663年、唐・新羅連合軍と戦い、水陸両面で大敗しました。これが、あの有名な白村江の戦いです。
百済の滅亡は日本にとって「遠い外国の話」ではありませんでした。日本の属国たる百済は事実上、日本の領土の一部でした。領土を侵犯されたという当事者意識とその国辱に対する憤激が日本を突き動かし、天皇自らが外征するということになったのです。
戦争の勝ち負けに関係なく、侵略に立ち向かう意志を為政者が示さなければ、政権の維持ができないほど激しい国辱の意識が当時の日本を覆っていたと考えられます。大化の改新以後、革命政権を担った中大兄皇子らの政権基盤はまだ脆弱でした。戦争の勝ち負けはその次の段階、まずは外的脅威に対抗するため、国内を戒厳下に置き、政権の求心力を固める必要があったのでしょう。ちなみに、中大兄皇子は白村江の戦いから5年後の668年、天智天皇として即位します。
壮絶な白村江の戦いの事実経過を考えても、前述の任那日本府が「小領域内にとどまる倭人共同体」などであろうはずがなく、やはりヤマト政権の支配機構であったことは明白で、日本の半島南部統治は想像以上に当時の重要な政治問題だったのです。
国号「日本」が意味するもの
白村江の戦いの敗北によって、日本は朝鮮半島の支配権を奪われ、古来より続いていた朝鮮半島との接合性を失います。しかし、それとともに日本列島の領域枠の意識が強く共有されて、国や民族のかたちが明確になり、日本という国家意識の原型が誕生するのです。日本の領域枠を守るため、国防軍が創設されます。唐の来襲の危機に備え、北九州一帯に国防軍が配置されます。万葉集にも収められている「防人歌」が無数に作られるのはこの時期です。
日本の国家意識の発揚とともに、日本の国号、つまり国の呼び名についても定まりました。中国は日本のことを「倭」と呼んでいました。後漢王朝の時代に編纂された字典『説文解字』によると、この「倭」には「従順」という意味があり、「付き従う者」という意味、さらにその意味を強めれば「隷属者」という意味もありました。
当然、日本側はこの「倭」という文字を嫌い、「倭」の代わりに発音が同じ「和」を使うようになり、さらに「大」を付け加えて「大和」とし、「ヤマト」の当て字にしたとされます。そもそも「ヤマト」が何を意味しているか諸説あり、「山のふもと」を意味するという説、山の神が宿る「山門」を意味するなどの説があります。
江戸時代の国学者の本居宣長は、天智天皇の時代に「日本」の国号が使われはじめていたと述べています。この頃、「日本」と書いて「ひのもと」と読んでいたとされます。「ひのもと」は太陽が昇るところという意味です。
607年の第2回遣隋使で、小野妹子は隋の煬帝に「日出処天子致書日没処天子無恙云云」(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無しや、云々)ではじまる有名な国書を差し出しています。日本は隋王朝のような大国を相手に決して怯まず、自らを「日出ずる処」とし、「天子」を名乗りました。中国の皇帝に「天子」を名乗るのは、対等の立場であることを主張するものに他ならず、煬帝は「日出処」「日没処」の記述ではなく、日本が「天子」を名乗ったことに対して激怒したことはよく知られています。日本は元々、「日出ずる処」の国という意識を強く持っており、これをそのまま国号にして、「日本」としたのです。
中国・朝鮮半島の抗争に巻き込まれるリスクから解放された
10世紀、五代十国時代に編纂された中国の史書『旧唐書』には、「日本」という国号について、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」という記述が見られます。「その国日辺にあるを以て」の「日辺」いうのは日の出る辺りという意味です。
日本が白村江の戦いで敗北し朝鮮半島への支配権を失ったことは、短期的には損失であったかもしれませんが、長期的には、朝鮮半島との関係が切れたことを契機に日本という国家が誕生し、そのことが明確に意識されるようになり、「日本」という国号の誕生とともに国家の新たな歩みと指針を得ることになったのです。日本は朝鮮半島や中国の煩雑な抗争に巻き込まれるリスクから解放され、内政を充実させることもできました。彼らとの関係を切ることが日本を日本たらしめたのです。
© 現代ビジネス」
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日本大百科全書(ニッポニカ)「任那(みまな)」の解説
任那(みまな) みまな
朝鮮古代の国名。「にんな」とも読む。別名は伽耶(かや)、加良(から)、駕洛(からく)など多数あるが、国際的には加羅(から)と書く。任那の国名は日本でしばしば使用されるが、朝鮮ではほとんど使用されない。日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の始祖王后来臨の聖地主浦(しゅほ)(ニムナ)の地名による。広義の任那は時代により変動し、洛東江(らくとうこう)下流域を中心に、ときに中流域にまで及んだ。
任那地方の基層文化は海洋文化を含む南方系文化が主であり、北方系の騎馬文化などは貴族文化に多い。任那諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。
[井上秀雄]
成立期の任那目次を見る
この地方では、農耕生産の普及や支石墓社会の形成などから、紀元前1世紀ごろに初期的な国家ができたとみられる。3世紀の任那地方は『三国志』によれば、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)各12国があったという。これら諸国のなかには、連合して辰国をつくったものもあるが、その王は農耕生産を維持、発展させるシャーマンであり、政治権力をもたない初期的な国家であった。
[井上秀雄]
4世紀後半の任那目次を見る
『日本書紀』に引用されている「百済(くだら)本記」によれば、百済は近肖古(きんしょうこ)王代(346~375)から任那諸国と国交を開いたという。また、広開土王碑文では、400年ごろのこの地方には、任那加羅(金海)や安羅(咸安(かんあん))など多くの国々があり、これらの諸国間にはかなり緊密な協力関係があった。その後も任那諸国は、百済や朝鮮南海岸地方ないしは北九州にあった倭(わ)国と協力して、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と対立していた。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那加羅は狭義の任那で、現在の慶尚南道金海市にあり、532年新羅に降服するまで、加羅諸国の有力国であった。また、任那加羅は『三国志』に弁辰狗邪(くや)国、狗邪韓(くやかん)国とあり、韓族、倭、中国などの海上交通の要衝として栄えた。大和(やまと)王朝の朝鮮進出の基地とされる任那日本府がこの地に置かれたといわれているが、それを証明するものはない。その開国神話は日本の天孫降臨神話の祖型で、始祖王后の海洋渡航神話も日本の神話と類似したところがある。また、任那諸国の新文物、新知識を日本にもたらした秦(はた)氏の出身地はこの任那加羅で、漢(あや)氏の出身地は安羅とみられる。
[井上秀雄]
5世紀の任那目次を見る
5世紀前半期の朝鮮は比較的安定し、任那諸国もそれぞれ自国の充実に努めていた。ただ倭国が、430年から任那(任那加羅)、加羅(高霊加羅)を含む六~七国諸軍事の称号を繰り返し南朝宋(そう)に求めるなど、朝鮮の国際関係に積極的な関心を示した。後半期には、新羅が洛東江流域に勢力を伸ばし、任那諸国と接触交渉が始まり、部分的な抗争も起こった。百済も全羅道に勢力を伸ばし、任那諸国との接触が深まった。また479年加羅王荷知(かち)が、南斉(なんせい)から輔(ほ)国将軍加羅国王の官爵を与えられ、国際社会に登場した。この時期の文化で注目されることは、地域的な特色が明瞭(めいりょう)になったことである。たとえば、丸底壺(つぼ)類をのせる器台では、西方に多い低平な器台、東部に多い高杯型器台、中央部に多い筒型器台など地方的な特色をもつようになる。また、異形土器が発達し、鴨(かも)形、舟形、車形、家形など各種の象形土器がみられる。任那加羅とともに狭義の任那とよばれる高霊加羅は大伽耶、大加羅ともいわれ、任那諸国の有力国で、現在の慶尚北道高霊郡にあった。ただし高霊加羅を任那とよぶのは、『日本書紀』の誤解によるとする説がある。伝承では43年に建国し、16代520年間続き、562年に新羅に併合されたという。6世紀には、任那諸国の盟主として活躍し、その文化も任那諸国を代表するもので、伽耶琴(かやきん)・加羅楽の発祥地、原始絵画、装飾古墳などがある。
[井上秀雄]
6世紀の任那目次を見る
5世紀末から百済の勢力が任那南西部に侵入した。百済はこの事態を大和王朝に承認させるため、五経博士(ごきょうはかせ)などを送った。これに反対する任那諸国は新羅に援助を求めた。新羅は525年に洛東江上流域に上州を設置し、百済と対立した。任那諸国のなかには百済、新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶、加羅七国、浦上(ほじょう)八国など連合体を組織するものもあった。その連合の組織では、諸国の代表者が集まって外交、軍事の実務を協議していた。しかし、当時の加羅諸国には、小国のままのものから数個の小国を統合した国まであって、諸国間の利害が対立し、各国支配者層内に親百済派、親新羅派が生じて混乱した。この混乱を利用した新羅に任那はしだいに侵略されて、532年に任那加羅など、562年に高霊加羅を中心とする残余の任那諸国が併合された。新羅に併合されたのちも任那諸国は比較的自立性が強く、新羅の直接支配を受けるようになるのは、統一新羅になってからである。この時期の貴族文化は、高句麗、百済からの影響が強くみられる。
[井上秀雄]
『末松保和著『任那興亡史』(1949・吉川弘文館)』▽『金廷鶴著『日本の歴史 別巻 任那と日本』(1977・小学館)』▽『井上秀雄著『任那日本府と倭』(1973・東出版寧楽社)』▽『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』
[参照項目] | 漢氏 | 加羅 | 百済 | 高句麗 | 五経博士 | 新羅 | 辰韓 | 宋 | 朝鮮史 | 日朝交渉史 | 日本府 | 秦氏 | 弁韓
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歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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親日・知日は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国、韓国・北朝鮮。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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人類の誕生と大移動は運命である。
日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジー、ボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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日本土人である縄文人(ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土、南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海(縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
数万年続いた日本列島の石器時代・縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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日本民族・琉球民族・アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州・樺太、北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
蝦夷地・北方領土アイヌ、樺太アイヌ、千島列島アイヌ、カムチャツカ半島アイヌ、その他。
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琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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