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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
明治時代の日本の主敵は、江戸時代後期から日本に侵略してきたロシアであった。
日本の敵は、ロシア・中国・朝鮮の3ヵ国であった。
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イギリスが北東アジアにおける対ロシア戦略のパートナーとして選んだのは、貧弱な軍事力しか持っていない弱小国日本ではなく、アジアの盟主で大軍団・大艦隊を持つ巨大国家清帝国であった。
当時の日本は、現代の日本人が思っているほど世界での評価は高くなかった。
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朝鮮王朝は、権力闘争と賄賂、汚職、横流し、横領、不正など上も下も全てが乱れに乱れて、法の秩序もなく、社会の治安もなく、国家の体を成していなかった。
権力闘争は、守旧派=事大党(清国忠誠派・礼節派・媚中国派)、開化派=親日派、国際改革派=親露西亜派、独立党、その他諸学派が、宮中の大院君、高宗、閔妃(明成皇后)の3者による家族喧嘩と絡み合い、敵になったり味方になったりと入れ替わり立ち替わりして、混乱をさらに複雑にしていた。
3人の中で陰謀を巡らして混乱をより酷くしていたのが閔妃であった。
当時の朝鮮は、日本とは違って、国内それもソウルの王宮内・政府内だけしか見ず、国外の周辺諸国はおろか世界全体・国際情勢を見ようとしなかった。
そんな隣人を持ったのが日本の悲劇であった。
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歴史的事実として、日本は被害者であり、朝鮮と中国は加害者である。
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2020年7月9日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講座」
〔近・現代篇〕
日清戦争 その一 清による朝鮮保護国化
日本を守るためにも朝鮮を掌握しなければ、と考えた明治政府は、強大な清国の出方を窺います。清も、日本の進出を警戒して朝鮮への圧力を強め、さらにアジアに進出したいロシアも絡んで、朝鮮はパワーゲームの草刈り場となってきます。
明治政府は1879(明治12)年3月に、第二次琉球処分を行いました。第一次では琉球王国を薩摩藩に組み換え、今度は薩摩藩を沖縄県とした。
……
親日開明派への反乱
さて朝鮮では1882年7月に壬午(じんご)軍乱が起こります。
日本から派遣されていた軍事教官を殺害し、日本公使館を襲撃します。王宮も襲って開明派の政府高官を殺害しました。
髙宗は、守旧派で10年前に追い出していた実の父親の大院君に、政権を返す他なくなります。
このとき李鴻章はいち早く清軍を派遣して軍乱を平定し、大院君を天津に連行して、閔妃政権を復活させますが、これを機会に朝鮮の内政にも干渉をはじめ、朝鮮の保護国化を進めました。
ちなみにこの李鴻章の清軍の若手将校の中に、のちの中華民国大総統になる袁世凱がいて現地の朝鮮国王代理の扱いにまで成り上がります。
日本もなんとかしようと画策しますが、先に清軍が居座ってしまい、なかなか出番がありません。
当時の日本陸軍の常備兵は2万人足らず。対して李鴻章の動かせる清軍は10万人を超えていました。
朝鮮半島は日本の利益線やでと主張してみたところで、清が軍隊を出したら何もできへん、ということで、日本は軍事拡張の8ヵ年計画を立てひたすら軍拡を進めます。
さて李鴻章、袁世凱のラインが朝鮮を支配するようになると、朝鮮の開明派は2つに分かれます。
1つが事大党と呼ばれる閔妃の一族。『清のバックアップで文明開化を進めるで』というグループ。
もう1つは『それは中国の属国化路線やで。朝鮮は独立国やで』という金玉均を代表とする独立党。独立党は反清ですから、必然的に親日グループとなりました。
83年には、ベトナムを巡って清仏戦争が始まります。ベトナムも清の冊封国ですから、そこにフランスが入ってきたから清の利益線が侵されるわけです。だから朝鮮と同じかたちで清が介入していました。
独立党のクーデタ
そうなると清の注意はベトナムに向いて、朝鮮はなおざりになります。この隙にやってしまえと、金玉均たちは84年12月に甲申事変というクーデタを起こしました。
閔妃政権の有力者を殺害し、国王髙宗を擁して新政権を樹立します。
しかし袁世凱は清軍を動員して新政府と、クーデタに加担していた日本軍を破ります。日本人居留民や軍人の30人が殺害され、公使館も焼かれました。
金玉均は日本に亡命しますが、のちに暗殺されました。
事変の後始末は李鴻章と伊藤博文が交渉して、天津条約で一応片をつけます。双方が撤兵し、今後軍隊を派遣するときは双方とも事前通告お行うというものです。
通告すれば相手も派兵することになるので、お互いの派兵を抑制する効果がありましたが、清はすでに朝鮮に対して治外法権や貿易特権を持っていて、日本よりも優位に立っていたのですね。
この間に福沢諭吉が『脱亜論』を書いています。『アジアは迷妄の国やで』というのです。大院君対閔妃、つまり尊王攘夷を唱えるグループ対中国べったりというグループで、20年も殺し合いをやっているようではアジアに希望はない。そんなアジアの事なんかに構わず、ひたすら西欧列強に倣って、自分たちは近代国家を作っていかなあかんでと、主張したのです。
この脱亜論は、『西洋を単純に崇拝したもの』として現代では評価が悪いですが、朝鮮で事変が続き、日本の居留民が殺されたという状況下で感情に任せて書かれているので、脱亜論一本で福沢諭吉を評価するのは少し可哀そうな気もします。
82年に李鴻章は、メレンドルフというドイツ人を『外交顧問にどうや』と朝鮮に押し付けました。
メレンドルフは、大院君派と閔妃派に挟まれて立場がない髙宗に、『ロシアと組めばフリーハンドを持ってまっせ』と唆(そそのか)します。こうして清が送り込んだ人間がロシアを巻き込むという面白い構図になります。
これは第一次露朝密約(1885年)と呼ばれます。髙宗は翌年にも駐朝ロシア公使に朝鮮への出兵を求める第二次露朝密約事件を起こしますが、李鴻章によって密約は破棄され、清の圧力が更に増していくことになります。
過激派と軍艦
1885年に大井憲太郎や、東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれた福田英子による大阪事件が起きます。
朝鮮に出向いて事大党の政府首脳を殺して、独立党の金玉均の政権をもう一回押し立て、その結果日清関係が緊張するのに乗じて日本でも革命を起こそうという企てでしたが、発覚して関係者が逮捕されます。自由民権運動の過激派はそのように夢想していたのです。
86年8月には長崎事件が起きます。出来立ての清の新鋭軍艦、定遠と鎮遠が修理と補給のために長崎に寄港し、清の水兵たちが街中で暴れました。お互いに相手国の死傷者にお金を出すという形で日本は穏便に済ませて、清との関係悪化を避けました。
清は91年、92年にも定遠、鎮遠を日本に寄港させて、日本の海軍関係者などに軍艦の中を案内しています。親善目的を兼ねて『どうや、オレの軍艦はすごいだろう』と日本に見せつけたわけです。
この頃の日本は、定遠や鎮遠に対抗できる軍艦を持っていませんでした。だから政府は『うちもでかい軍艦が欲しい』と、毎年その費用を予算に計上しては議会で揉めていたわけですね。この流れが日清戦争の開戦まで続くことになります」
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日清戦争。明治27(1894)年8月に勃発、翌28(1895)年4月の下関条約で終結した。
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イギリスは、中国市場の独占の為に清国を支援し、対ロシア戦略から清国軍増強に協力していたが、日本海軍の為にも軍艦を建造して売却した。。
清国の実力者李鴻章は、朝鮮を巡る日本との戦争に備えて北洋軍と北洋水師(渤海艦隊)を作った。
清国の最高権力者である西太后は、廃墟となった円明園再建に巨費を投じ北洋軍への支出を渋っていた。
ドイツは、清国に7,000トン級の装甲戦艦である定遠・鎮遠を売却し、北洋水師は東洋一最強の海軍になった。
欧米の国際資本は、日本と清国の両国に軍事物資を売って大金を稼いでいた。
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ウィキペディア
天津条約(英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれる。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。
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世界史の窓
ベルリン(コンゴ)会議(1884-85)
1884~5年、ビスマルクが主催した、アフリカ分割に関するヨーロッパ列強による国際会議。アフリカ分割の調停及び植民地化の原則が取り決められた。
1884年~85年、ドイツ首相ビスマルクの提唱で開催された、列強14カ国によるアフリカ分割に関する会議。ベルリン=コンゴ会議ともいい、特にベルギー国王レオポルド2世のコンゴ支配を承認するかどうかが主要な案件であった。参加14ヵ国とは、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国。会議は100日間以上にわたって行われ、全7章、38条からなる協定を締結して終了した。同じくビスマルクの主催により、ベルリンで開催された会議である1878年のバルカン半島へのロシアの侵出をめぐって開催されたベルリン会議と混同しないようにしよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ)「巨文島事件」の解説
巨文島事件 きょぶんとうじけん
1885年3月イギリス艦隊が朝鮮全羅南道の半島南端と済州島のほぼ中間にある巨文島を不法に占領した事件。当時イギリスとロシアはアジア地域で利権問題で対立し、とくにアフガニスタン国境問題では極度に緊張していた。一方、日本と清(しん)国の朝鮮への内政干渉が強くなり、朝鮮政府内の一部にはロシアの力を利用しようとする動きがあった。そこからロシアの永興(えいこう)湾提供要求が起こり、このような極東におけるロシアの南下政策の積極化にイギリスは脅威を感じた。そこで、イギリスはロシア艦隊の朝鮮海峡の通路を遮断する目的で突如巨文島に東洋艦隊を派遣して占領、要塞(ようさい)を築いた。清国はロシアを制するため初めこの占領を是認したが、朝鮮政府はただちに抗議し、イギリス艦隊の撤退を要求するとともに、アメリカ、ドイツ、日本に対して調停を要請し、事件は国際問題化した。ロシアは、清国がイギリスの占領を認めれば自国も朝鮮の一部を占領すると強く主張し、おりしもアフガニスタン国際問題も解決して、1887年2月イギリス艦隊は撤退した。
[朴 慶 植]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界の歴史まっぷ
露朝密約事件 – 朝鮮服で正装したメレンドルフ ©Public domain
露朝密約事件 戦争・条約
公開日 2016-02-20
最終更新日 2019-07-15
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巨文島事件
目次
第一次露朝密約事件
第二次露朝密約事件
不凍港
ロシアの帝国主義時代の極東進出
露朝密約事件 が登場する作品
明成皇后
露朝密約事件 ろちょうみつやくじけん
朝鮮政府が清や日本、イギリスを牽制けんせいするため、秘密裏にロシア帝国と交渉を行い、軍事的援助と保護を求めたとされる1885年(第1次)、1886年(第2次)ふたつの事件。
露朝密約事件
第一次露朝密約事件
1885年
朝鮮政府の外務協辦を務めていたパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフの主導によった。
1885年、メレンドルフは朝鮮の不凍港の租借を対価として、朝鮮の保護や軍事教官団を招聘しょうへいすることを試みた。
ロシアも教官団の招聘には応じることを検討し、駐日公使館書記官のシュペイエルを漢城に派遣したが、朝鮮政府内の異論や清国当局の反対により、密約は成立しなかった。そして、メレンドルフのこのような動きは、旧来の東アジアの伝統的国際秩序が近代的な条約に基づく関係に移行する中で、あくまでも朝鮮を影響下に留め置こうとする清、とりわけ李鴻章の目論見に反していたために背信と捉えられ、メレンドルフは失脚することとなった。
また、メレンドルフからの要請とは別に朝鮮国王の密使がロシア国境当局に派遣されたが、これに対してロシアは朝鮮の保護に対して何ら言質を与えない回答をするに留まった。
第二次露朝密約事件
露朝密約事件 高宗
高宗
1886年
8月 朝鮮政府が在漢城ロシア代理公使ウェーバーに宛てて、朝鮮が第三国との紛争に陥った際に、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める旨の密函(秘密書簡)を送った事が露見し、国際問題に発展した事件を指す。
当時、朝鮮政府の内部には、ロシアを引き込むことで清の圧迫に対抗しようとする「引俄反清」「斥華自主」の機運があった。
しかし、清からの報復を怖れた閔泳翊が、袁世凱に密告することで清当局の与り知るところとなり、清国軍の派遣と高宗の廃位が取り沙汰されることとなった。
結局、ロシア外務省は密函の受領は認めたものの、高宗の要請には応じない旨を清に約することで、国際問題としての密約事件は終息した。
不凍港
不凍港(Warm-water port/Ice-free port)とは、地理学、地政学の用語。冬季においても海面等が凍らない港、または砕氷船を必要としない港のこと。高緯度にある港湾は厳冬期にしばしば凍結するが、ノルウェーのフィヨルド地域にみられる諸港やロシアのムルマンスク(・ポリャールヌイ)のように、高緯度であっても暖流の影響で不凍港となる場合がある。不凍港は軍事的・経済的な価値が大きい。
ロシアの帝国主義時代の極東進出
1885年と1886年のメレンドルフやヴェーバーらによる露朝秘密条約による朝鮮国内不凍港租借の約束、日清戦争後の下関条約に対する三国干渉(1895年)、1896年から翌年にかけての朝鮮における露館播遷、また、1900年の北清事変参戦の満州占領など、いずれも軍港ウラジオストク・商港ナホトカの保全とそれに連なる不凍港獲得によって、さらにその外延部に勢力を拡大していくための営為であった。ロシアは、北清事変ののちも北京議定書の取り決めを守らず、満洲からは撤兵せず、逆に遼東半島先端部を清国より租借して旅順港と旅順要塞を築いた。日本はこのようなロシア帝国の動きに対し危機感を強め、1902年にイギリスとのあいだに日英同盟をむすんでこれに対抗、最終的には日露戦争(1904年-1905年)によって決着を図った。旅順はこのようにロシア南下政策の最前線であったと同時にシベリア鉄道およびそれに接続する東清鉄道によってロシア主要部と結ばれることは、イギリスにとっては東アジア地域に保有する利権の侵害、日本にとっては国家の独立そのものが危機に瀕するため、旅順攻防戦がこの戦争最大の激戦となった。
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露朝密約事件とは、19世紀末の朝鮮政府が清や日本、イギリスを牽制するため、秘密裏に帝政ロシアと交渉を行い、軍事的援助と保護を求めたとされる一連の事件。1885年(第一次)、1886年(第二次)の二つがある。
第一次露朝密約事件
最初の露朝密約事件は、朝鮮政府の外務協辦を務めていたパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフの主導によった。1885年、メレンドルフは朝鮮の不凍港の租借を対価として、朝鮮の保護や軍事教官団を招聘することを試みた。ロシアも教官団の招聘には応じることを検討し、駐日公使館書記官のシュペイエルを漢城に派遣したが、朝鮮政府内の異論や清国当局の反対により、密約は成立しなかった。そして、メレンドルフのこのような動きは、旧来の東アジアの伝統的国際秩序が近代的な条約に基づく関係に移行する中で、あくまでも朝鮮を影響下に留め置こうとする清、とりわけ李鴻章の目論見に反していたために背信と捉えられ、メレンドルフは失脚することとなった。
また、メレンドルフからの要請とは別に朝鮮国王の密使がロシア国境当局に派遣されたが、これに対してロシアは朝鮮の保護に対して何ら言質を与えない回答をするに留まった。
第二次露朝密約事件
二度目の露朝密約事件とは、翌1886年8月に、朝鮮政府が在漢城ロシア代理公使ウェーバーに宛てて、朝鮮が第三国との紛争に陥った際に、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める旨の密函(秘密書簡)を送った事が露見し、国際問題に発展した事件を指す。当時、朝鮮政府の内部には、ロシアを引き込むことで清の圧迫に対抗しようとする「引俄反清」「斥華自主」の機運があった。しかし、清からの報復を怖れた閔泳翊が、袁世凱に密告することで清当局の与り知るところとなり、清国軍の派遣と高宗の廃位が取り沙汰されることとなった。
結局、ロシア外務省は密函の受領は認めたものの、高宗の要請には応じない旨を清に約することで、国際問題としての密約事件は終息した。
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世界的に見て、明治維新で近代国家へ歩み始めた日本は近代的な産業も軍隊も持たない貧しくひ弱な小国であったが、植民地化されるアジアやアフリカの諸国より多少とも気骨があり侮れないと認められていた。
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攘夷と言っても、日本と朝鮮・中国と全然違う、全くの別物であった。
しょせん、朝鮮人や中国人には日本の攘夷は分からない、幾ら話して説明しても理解できない。
何故なら、生き方が違い、価値観が違い、考え・思い・思考が違うからである。
その違いを一言で言えば、日本は「柔」であり、朝鮮・中国は「硬」であった。
日本の「柔」は、昔の日本民族の事であって、現代の日本人の事ではない。
その事から言えば、昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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弱小国日本、巨大国清国、強大国ロシアの3ヵ国は、無力・無能な朝鮮を間に挟んで睨み合っていた。
その他のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなど西洋列強は、東アジア進出する機会が訪れるかどうかその隙を窺っていた。
世界は弱肉強食の帝国主義時代で、各国は自国の国益の為に権謀術数で策謀を繰り返して暗躍していた。
国際社会を動かしていたのは、国家の利益であって世界の信義ではなかった。
強う国が奪い弱い国には奪われる、つまり勝てば官軍であり負ければ賊軍で、勝者が敗者の生殺与奪の権を握った。
日本も朝鮮も、その血も涙もない、冷血・冷酷・非情の世界で生きていた。
アジアの小国日本は、生き残るべく世界を相手に1国だけで孤独に積極的自衛戦争を繰り返していた。
日本には恥じる所は何もない。
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中国と朝鮮は、「夷を以て夷を制し、自分は戦わない」。
日本は、「夷を利用して自分が戦う」。
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国家存亡の危機として異常なほど神経を尖らせていたのが、ロシアの日本侵略に怯えていた日本・明治新政府であった。
軍事大国ロシアによる日本侵略という恐怖は、江戸時代後期から暗く陰鬱に軍事小国日本を覆っていた。
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日本は、ロシアの侵略から日本を守る戦略として、朝鮮半島に親日派国家をつくるべく開化派を支援したが、清国とロシアを刺激して軍隊派遣の口実を与えない為に日本国家としてではなく福澤諭吉や右翼の民間有志に委ねていた。
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日本の安全を脅かす最悪の存在が閔妃で、閔妃は立場を有利にする為に日本と清国への悪影響を気にせずロシアと手を組みロシア軍を朝鮮半島へと引き込んだ。
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日本には、朝鮮に配慮する余裕も朝鮮を助けるゆとりもなかった。
朝鮮が生き残るも、豊かになるのも、それは自己責任と自助努力として朝鮮の責任であり、日本には無関係、あずかりしらない事であった。
つまり、日本は朝鮮を助ける義理はなかった。
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武士・サムライや兵法家・武芸者は、日本における特殊な職業戦闘集団であったが、朝鮮や中国にはいなかった。
昔の日本にはいたが、現代の日本にはいない。
つまり、現代の日本人は武士・サムライや兵法家・武芸者とは縁もゆかりもない日本人である。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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日本民族にとって、中国人と朝鮮人は天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇・法皇は島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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親日派・知日派は、古朝鮮、百済、高句麗、古新羅、渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国。
韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張の熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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672年 壬申の乱。天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社)
生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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764年 藤原仲麻呂の乱。帰化人対渡来人の攻防。
親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備や坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
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高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
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一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
後期倭寇は中世のバイキングに似たところがあった。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵・唐入り
1792年文禄の役、1797年~98年慶長の役。
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歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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