🪁2〕─3・B─東アジアの古代文化とは揚子江の船文化、黄河の馬文化、日本の舟文化である。~No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本と中国・朝鮮とでは古代文化が違う。
   ・   ・   ・    
 『「馬」の文化「船」の文化  古代日本と中国文化』
    福永光司 著  人文書院
 ……
 あとがき
 私たちが日常生活の中で意識しないでやっていることの中には、道教をはじめとする中国古代宗教の思想信仰やしきたりが習俗となって染み付いています。それは想像以上といっていいでしょう。
 私は中国の北(西を含む)の文化を『馬』の文化、南(東を含む)の文化を『船』の文化と呼んでいます。日本は古代から、この南北の『馬』と『船』の文化の影響を強く受けてきました。われわれが意識するしないにかかわず、この『馬』と『船』の文化は、日本人の日常生活の中に深く根を張っているのです。
 1994年6月、私は河南省湖北省に行ってまいりました。そこは中国古代の楚の国があったところです。楚は日本人および日本文化と大変密接な関係があるにもかかわず、いまではほとんど注目されていません。 しかし、この地域は、古代から呉、越、楚という国が興り、日本と密接な関係を持っておりました。では、どのような関係があったのか、お話ししてみたいと思います。
 呉の国は、まず日本の服飾産業と密接な関係があります。『日本書紀』には呉織(くれはとり)、漢織(あやはとり)が日本に織物を伝えたと書いてありますが、この呉織の呉というのが、実は古代中国の呉の国なのです。
 また神武天皇は、呉の泰伯(たいはく)という王様の子孫が、ボートピープルで日本にやってきて神武天皇になったという伝説があります。そのことを中国の学者も発表しておりますし、日本でも室町幕府に京都・建仁寺の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)というお坊さんが、『神武天皇は呉の泰伯の子孫』という論文を書いています。
 この論文を、江戸時代の徳川家康が、本当かどうか幕府の学問の顧問であった林羅山に調べさせたそうです。結局、林羅山は『これは作り話で真実ではない』と答えたそうですが、しかし室町時代には、これを本当だと信じる学者がいたことは事実のようです。
 しかし、この伝説も根も葉もないことではないようで、例えば3世紀ごろの中国の歴史を書いた『晋書』という書物には、『倭人(日本人)が、中国にやってくると、みんな口を揃えて、〈私たちは御国の呉の泰伯の子孫でございます〉という』と書いてあります。さらに6世紀の『梁書』にも同じようなことが書いてあり、中巌円月はこのような資料を踏まえて、論文を書いたと思われます。
 この呉は西暦前473年に、越に滅ぼされます。そうすると、滅ぼされた呉のいろいろな技術を持った人たちは、奴隷として越の国に連れて行かれます。そrを嫌がった人たちは、ボートピープルとなって朝鮮半島や日本列島に逃げていき、様々な技術や文化を日本にも伝えることになるのです。
 さらに、呉を滅ぼした越も楚に滅ぼされ、その楚も秦の始皇帝に滅ぼされます。そのたびに難民がボートピープルとなって朝鮮半島や日本列島に逃げていったのです。
 この呉、越、楚という国は、中国第一の大きな川である長江、さらに淮(わい)河、漢水の流域に位置していました。この地域は昔から道教が盛んで、その影響のもとに発達したのが『船』の文化です。それに対して、北(西)のほうの中原文化、あるいは儒教文化圏とよばれているところは、黄河流域になります。国でいうと、周、秦、漢で代表される文化圏で、そこで発達したのが『馬』の文化です。日本葉この『船』の文化と『馬』の文化の影響を強く受けてきたといってもよいでしょう。
 しかし、明治10年にスタートした東京帝国大学は、江戸時代の昌平黌をそのまま官学として引き継いだもので、『船』の文化のほうはほとんど切り捨ててしまい、中国文化イコール儒教文化という方程式をつくってしまいました。そして、中国の儒教文化と比べて違う文化は、神代の時代からの日本独特の文化だと定義づけてしまったのです。
 とくに満州事変が起きてからは、政府も文部省を通じて、『馬』の文化つまり儒教文化一本に絞り、皇国史観に都合の悪いことは、教えないようにしてきました。
 しかし、いまからすると、これは大変な間違いであったといわざるを得ません。なぜなら、日本の文化が、南の『船』の文化の影響を大きく受けてきたのは事実なのですから。
 例えば、日本の建国神話が書かれている『古事記』や『日本書紀』の記述などは、一般的に日本独特の神話であると思われています。しかし、多分に『船』の文化である初期道教の影響を受けているのです。
 伊邪那岐(いざなぎ)が死んだ伊弉冉(いざなみ)に会いに黄泉の国に行き、その後で伊邪那岐がみそぎをして目を洗う。すると、洗った目から天照大神と月読(つきよみ)が生まれるわけですが、死体を見たらみそぎをして目を洗うというのは、道教のしきたりなのです(六朝期の道教経典『黄素四十四方経』を参照)。そのほかにも道教の経典にある思想信仰をそのままなぞったようなものが神話にはたくさんあり、『古事記』にや『日本書紀』にも道教の言葉が数多く使われているのです。
 また、日本人は大変きれい好きですが、これも南の『船』の文化の影響だと私は考えます。
 私は京大を卒業してすぐに軍隊に入り、中国南部の海岸地区に駐屯していました。また、戦後は海南島からシーサンパンナ、シンガポールのほうまで巡って歩き、向こうの非漢民族の生活をつぶさに見る機会がりました。彼らの生活は、水浴の仕方から藁(わら)の積み方まで日本人と同じで、身ぎれいな暮らし方をしていました。それを見て、われわれの生活の仕方とあまりにも似ているので、最初は倭寇の子孫たちに違いないと思ったほどです。
 一方、北(西)の『馬』の文化の人たちの清潔不潔に対する感覚は、明らかに日本人とは違います。騎馬民族の生活は移動が基本ですから、簡単には風呂にも入れず、お世辞にもきれい好きとはいえません。
 これでもわかるように日本人のきれい好きは、南の『船』の文化の影響だと思われます。
 南の『船』の文化であれ、『馬』の文化であれ、日本は中国から圧倒的な影響を受けているのは否定できません。日本の文化を考える場合、これらは中国の『馬』の文化『船』の文化、そして日本の文化の三角関係で考えていく必要があるとおもいます。
 〔附記〕
 右に『あとがき』として掲載した小文は、平成7年(1995)4月、東京の『木鶏クラブ』講演会(致知出版社主催)で行われた私の『馬の文化と船の文化』と題する講演の抜粋要約である。……。」
   ・   ・   ・   
「馬」の文化と「船」の文化―古代日本と中国文化
   ・   ・   ・   
 中国大陸や朝鮮半島から日本列島に渡ってきた人々とは、難民、敗北者、逃亡者、亡命者、その他の高度な知識と技術を持った弱者であった。
   ・   ・   ・   
 東アジアの地理・地形から見たとき、日本列島と中国大陸・朝鮮半島は「水」を介していえば「一衣帯水」の関係には間違いない。
 地政学・興亡史から見たとき、日本と中国・朝鮮は「唇亡びて歯寒し」の緊密な関係ではなかった。 
   ・   ・   ・   
 国家として日本国と中国・朝鮮国は別の国で、民族として日本民族漢民族朝鮮民族は別の民族である。
 つまり、日本と中国・朝鮮は同種同根ではなく異種であり、日本と中国・朝鮮は敵対関係・敵国関係であった。
   ・   ・   ・   
 日本は、朝鮮とは違って中国に占領された事もないし属国や保護国になった事もなく、東アジアで一ヵ国で孤独に孤立して自主独立を守り通してきた。
   ・   ・   ・   
 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
 渡来人は、第32代崇峻天皇を暗殺し、820年に関東で反乱を起こした。
   ・   ・   ・