🦠2〕─1─多民族王国西遼は、王女と結婚した蛮族の王族に乗っ取られて滅亡した。~No.2No.3No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 多様性多民族国家は、平時・順境では富が集中し繁栄するが、戦時・逆境では脆く弱く崩壊しやすかった。
   ・   ・   ・   
 多民族国家の西遼(せいりょう)は、モンゴル高原チンギス・カンとの攻防戦で敗北した異民族異宗教異文化の人々を無条件で受け入れていた。
   ・   ・   ・   
 古代の日本は、多様性を持った多民族多宗教多文化国家であった。
 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
  ・  ・  
 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
   ・   ・   ・   
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
   ・   ・   ・   
 2024年2月15日号 週刊新潮「モンゴル人の物語〈39〉 百田尚樹
 1210年から1211年にかけて、それまで西遼が支配していた天山ウイグル王国と2つのカルルク族がチンギス・カンに服属したことによって、西遼とモンゴル帝国の間に緊張状態が生まれたと思われる。しかし両国の間で戦端が開かれるのは、かなり後のことである。
 チンギス・カンは西側の防衛に関してそれほど神経質になっていなかったようである。その理由は西遼内で大きな政変が起きて、国が混乱していたからだ。
 その政変にはナイマンのグチュルクが絡んでいた。彼は1208年にチンギス・カンに敗れ、残党を引き連れて西遼に逃げ込んだが、以前からチンギス・カンの勢力拡大に警戒心を抱いていた西遼の三代目の皇帝(グルカン)、耶律直魯古(やりつ・チルク)は彼らを受け入れた。耶律直魯古は契丹人で、女真族(金朝)によって滅ぼされた遼の王族の流れを汲む男である。
 グチュルクは臆病者の父ダヤン・カンと違い、闘争心溢れる男だった(前述したようにグチュルクとはチュルク語で『力ある者』という意味である)。ナイマンが滅んだ後もメルキト族と手を組んで何度もチンギス・カと戦っている。

 耶律直魯古はそんなグチュルクを気に入ったのか、自らの娘を与えるほど厚遇した。
 しかし野心のあるグチュルクは西遼の一将軍で終わるつもりはなかった。彼は西遼の王位簒奪を計画していたのだ。そこで、モンゴル高原から駆逐されて各地に散っていたナイマンの残党を呼び寄せた。集まった中にメルキトの残党もいた。
 グチュルクはそれらの兵でクーデターを起こそうと考えたが、そこまでの勢力を蓄えることができなかった。そこで彼は一計を案じた。それは西遼の臣従国であったホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと手を結び、西遼を滅ぼして、その領土を二人で分け合うというものだった。
 ホラズム・シャー朝とそのサルタン(皇帝)であるアラーウッディーン・ムハンマドの名前を、読者の皆さまにはしっかりと記憶にとどめておいてもらいたい。後にモンゴル帝国にとって非常に重要な国と人物になるからだ。そのことはいずれ詳しく述べる。
 グチュルクの計画に乗ったアラーウッディーン・ムハンマドは、1211年、西遼に反旗を翻した。耶律直魯古はこれを討伐するため軍を送ってサマルカンドを包囲させたが、そのタイミングを狙って、グチュルクは西遼内で兵を挙げた。
 それを知った耶律直魯古はグチュルク討伐のために、サマルカンドを包囲していた軍を引き上げさせた。
 グチュルクはウズケンドにある西遼皇帝の宝庫を略奪し、さらに西遼の首都フスオルドを狙った。しかし舞い戻った直魯古の軍によって撃退された。グチュルクは奪った多くの財物を奪還され、逃走した。
 まさにこの時、アラーウッディーン・ムハンマドのホラズム・シャー軍が西遼に侵攻してきた。西遼軍はこれを迎え撃ったが敗れた。
 敗走する契丹兵たちは自国の領土内で多くの住人から財物や女などを掠奪した。読者の皆さんは、なぜ軍が自国民に対して乱暴狼藉を働けるんか疑問に思うかもしれない。しかしこれは中央アジアにおいては珍しいことではなく、敗軍の兵たちはしばしば無法者の集団と化す。
 また西遼の持つ独特の社会構造のせいでもあった。前述したように西遼は遼から逃げてきた契丹人が作った国である。もとからその地方に住んでいた人々の多くはテュルク系でイスラム教徒だった。モンゴル系の契丹人(多くは仏教徒であった)にとっては、彼らは自国民とはいえ異民族であり異教徒であったので、容赦はなかった。
 そしてこれらの事件がきっかけとなったかと思われるのが、首都フスオルドの住人たちは、耶律直魯古が率いる西遼軍が退却してきた時、彼らの入城を拒否し、城門を閉じた。
 住人たちは自分たちと同じテュルク系でイスラム教徒のアラーウッディーン・ムハンマドを新しい君主として迎えるために西遼に反旗を翻したのだ。住人たちはホラズム・シャー朝の軍が救援に来ることを期待して、都市に立て籠もって契丹人に抵抗していた。
 耶律直魯古はただちにフスオルドを包囲した。こうした一連の出来事を見ると、多民族国家の危うさというのがよくわかる。平和な時には何とか統治できていても、いざ戦争などの混乱が起きると一気に瓦解する。常に累卵(るいらん)の危うきにあるといえる。あるいは耶律直魯古という皇帝は統治能力に欠ける男だったかもしれない。……
 耶律直魯古は包囲から16日後、ついに首都を陥落させた。西遼軍は怒りに任せて住人を虐殺し、伝えられるところによると、その数は4万7,000人にのぼったという。
 ようやく首都を奪還した耶律直魯古であったが、その財政は逼迫していた。要するに兵たちに与える財貨が不足していたのだ。莫大な財産を有していた宰相のマフムード・ベイは、自分が金銭的な犠牲を払うことを嫌い、グチュルクから財物を取り戻していた軍隊に対して、それらを耶律直魯古に返還するように命じた。すると軍の司令官たちはそれを拒否して、耶律直魯古のもとから離れた。こうした状況を見る限り、この時の西遼軍はほとんど統率が取れていないことがわかる。あるいは兵のかなりが傭兵だった。
 耶律直魯古から軍の大半が離れたと知ったグチュルクは再び兵を率いて、耶律直魯古に襲いかかった。軍を失っていた耶律直魯古は義理の息子の兵たちに捕らえられた。
 こうしてグチュルクは、妻の父である耶律直魯古を形式上の地位に就けたが、国の実権は完全に自らが掌握した。しかし西遼国そのものは多くの領土と臣従国を失い、実質的にほぼ崩壊した状態となった。
 かつては中華に遼という国を建て、その後、女真族に追われて中央アジアの西に西遼という国を建てた契丹人は、ナイマン族の王子グチュルクのクーデターによって歴史の表舞台から姿を消すことになった。
 ちなみに西遼は『カラキタイ』と呼ばれることもあるが、『キタイ』というものはもともと契丹を意味した言葉であるが。ただ、当時は金国を指しており、金国の支配下にあった女真人も漢人も『キタイ』と呼ばれていた。『カラ』というのはモンゴル語で『黒い』という意味である。つまり『カラキタイ』は女真人や漢人を含まない真の契丹人という意味である。……余談だが、ヨーロッパでは中華を指すのに『キャセイ』という言葉を使うことがあるが、これは『キタイ』からきている。
 ……」
   ・   ・   ・   
 日本大百科全書(ニッポニカ) 「カラ・キタイ」の意味・わかりやすい解説
 カラ・キタイ
 からきたい
 Kara Khitai
 12~13世紀に契丹(きったん)人が中央アジアに建てた国家。西遼(せいりょう)ともいう。イスラムの歴史家はカラ・キタイという。遼が金に滅ぼされたとき(1124)、外モンゴリアに脱出した遼の王族の耶律大石(やりつたいせき)はやがてアルタイを越えて中央アジアに進み、ウイグル人などの援助を得て、1132年カラ・ハン朝を滅ぼし、ベラサグンで帝位につき、グル・ハンGur Khanと称した。中国では徳宗という。37年西トルキスタンに侵入、41年にはサマルカンド付近でセルジューク諸侯の大軍と戦って決定的な勝利を得た。ここに至って東西トルキスタンの全域がカラ・キタイの領土となった。その王朝は3代、80余年続いたが、チンギス・ハンに追われたナイマン部の王子クチュルクのために、1211年に国を奪われた。カラ・キタイが仏教を信じ、中国式の制度を用いるなど、中国文化の西伝をみたことは名高いが、それは首都付近の契丹人、中国人の移住者の社会に限られ、イスラム教徒トルコ人の人民にそれらを押し付けることはしなかった。
 [羽田 明]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 西遼(せいりょう、拼音: Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。
 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている。
 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」、「ハンの中のハン」、「大いなるハン」、「勇敢なハン」などの意味)の称号を名乗り、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。
 首都はクズオルド(虎思斡耳朶、quz ordu /غزباليغ Ghuzz-Balïγ グズオルド、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。

 衰退
 1177年に不倫が原因で普速完が殺害され、耶律夷列の次男の耶律直魯古が即位する。
 即位した耶律直魯古は政治を顧みずに狩猟と快楽に耽溺し、そのためにホラズム・シャー朝、ウイグル王国、 西カラハン朝の離反を招いた。さらにナイマン族の移動とホラズム・シャー朝が扇動したムスリム住民の反乱により、帝国の衰退が始まった。
 他方、西方ではホラズム・シャー朝のテキシュがイラクセルジューク朝を滅ぼし、勢力を拡大した。テキシュの死後にスルターンに即位したアラーウッディーン・ムハンマドアフガニスタンから北進してきたゴール朝を撃退し、マー・ワラー・アンナフルとホラーサーン全域・東部イランを掌握して勢力を増す。サマルカンド周辺を領有していた西カラハン朝の最後の君主オスマーンは西遼への貢納の支払いに耐えかね、アラーウッディーンに西遼への攻撃を促した。1208年頃にアラーウッディーンは貢納の取り立てに来た西遼の官吏を殺害し、軍勢を率いて東進したが、西遼軍はこれを破りアラーウッディーンの捕縛に成功した。しかし、程なくホラズム・シャー朝軍の工作によって、アラーウッディーンは逃亡する。
 1208年、耶律直魯古はチンギス・カンとの戦いに敗れたナイマンのクチュルクを皇女の婿として迎え入れる。しかし、クチュルクは離散したナイマンの遊牧民を糾合して反乱を起こし、ナイマンと同じくモンゴルに敗れたメルキトの部衆もクチュルクの軍に加わった。クチュルクはホラズム・シャー朝と同盟してウーズガンドの宝物庫の略奪を図るが、耶律直魯古はクチュルクの軍を破り、彼の部下の多くを捕虜とした。
 1209年にウイグル王国は西遼から派遣された徴税人の搾取に反発し、徴税人を殺害してモンゴル高原で勢力を蓄えたモンゴル帝国に帰順した。1210年に再びアラーウッディーンがオスマーンと合同してスィル川を渡って進軍。スィル川東岸のバナーカトにおいて将軍ターヤンクー率いる西遼軍は撃破され、西トルキスタンを奪われる。アラーウッディーンのスィル川での勝利に呼応して彼を君主として迎えるべく首都ベラサグンでも叛乱が起き、耶律直魯古はこれを討伐せねばらならなかった。ベラサグンの叛乱鎮圧後の軍議が散会した隙を突かれ、1211年(もしくは1212年)にクチュルクは耶律直魯古を捕らえ、帝位を簒奪した。
 1213年に耶律直魯古は没し、遼の皇統は断絶する。
 モンゴル襲来と滅亡
 詳細は「モンゴルの西遼征服」を参照
 クチュルクはアルマリクの部族長オザルを服従させようとし、町を数度攻撃した後に奇襲によってオザルを殺害する。さらにトルキスタンの主要都市であったカシュガルとホータンを武力で屈服させ、ホータンでは自ら主催した宗教討論の席上で現地のウラマーを怒りに任せて拷問にかけるなどしたため、ムスリム住民からの反発を招いた。
 そして1218年に、西遼はモンゴル帝国の将軍のジェベの攻撃を受ける。カシュガルを攻撃した際にジェベは住民に信仰の自由を約束し、これを聞いた住民たちは自分たちの家に配備されたクチュルクの兵士を殺害した。クチュルクはパミール高原付近のバダフシャーンに逃亡するものの、モンゴル軍に捕らえられ処刑された。
 その後、モンゴル帝国の領地が分配されるに当たり、この西遼の故地はチンギス・カンの次男のチャガタイに与えられた。チャガタイ・ハン国の領土は、ほぼ西遼のそれに合致する。
 また、アラーウッディーン・ムハンマドにスィル河畔で敗れたターヤンクーにはバラク・ハージブという兄がおり、この戦いの後にホラズム・シャー朝に仕えケルマーンのカラヒタイ朝の始祖となった。バラク・ハージブとターヤンクーの一族は約80年の間ケルマーンに地方政権の君主として君臨するが、1306年にイルハン朝のオルジェイトゥ・ハンによって支配権を没収された。

 歴代君主
1,徳宗 耶律大石(タイシ、天祐帝、在位1124年 - 1143年) - 遼の太祖の八世の孫
2,感天蕭太后 蕭塔不煙(タプイェン、在位1143年-1150年)- 耶律大石の後妻
3,仁宗 耶律夷列(イリ、在位1150年 - 1163年)- 耶律大石の子
4,承天太后 普速完(プスワン、在位1163年 - 1177年)- 耶律夷列の妹
5,天禧帝 耶律直魯古(チルク、在位1177年 - 1211年) - 耶律夷列の子
6,屈出律(クチュルク、在位1211年 - 1218年)- 耶律直魯古の女婿、ナイマン部出身

   ・   ・   ・