🎍50〕─1─中国で「科挙」が発展したのは宋の時代、宋人が「戦に飽き飽きしていた」ワケとは?~No.156 

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 2024年6月8日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「『光る君へ』中国で「科挙」が発展したのは宋の時代、宋人が「戦に飽き飽きしていた」ワケとは?
 総社大神宮(福井県越前市)の境内にある「越前国府」の石碑(写真:PIXTA
 『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第22回「越前の出会い」では、大国・越前の国司に任官された藤原為時が張り切って任務に励むも、あまりの激務で体調をくずしてしまい……。今回の見どころについて、『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
 【写真】紫式部国府資料館(福井県越前市
■ 故事成語「杯酒を以て兵権を釈く」が生まれた背景
 「越前は父上のお力を生かす最高の国。胸を張って赴かれませ。私もお供いたします」
 いったん淡路守に任じられたものの、任地の変更が行われて越前守に任命された、岸谷五朗演じる藤原為時(ためとき)。
 そんな言葉で、吉高由里子演じる、娘のまひろ(紫式部)から激励された為時だったが、確かに適任だったようだ。今回の放送では、着任早々、宋語を用いて宋人たちとコミュニケ―ションをとる為時の姿が見られた。
 まったくもって宋の商人たちのパワーには圧倒されるばかりだが、当時の中国の状況を踏まえれば、それだけ活気づく理由も理解できる。
 かつては強大だった唐が国力を失っていき、滅びたのは907年のこと。衰退の兆しは日本にまで伝わっていたようだ。894年には菅原道真遣唐使の廃止を宇多天皇に提案し、採用されている。
 唐の滅亡後、華北中原には5王朝(後梁後唐後晋後漢、後周)が、その周辺には10国(前蜀後蜀・呉・南唐・呉越・閩・荊南・楚・南漢北漢)が乱立することになった。「五代十国」と呼ばれる時代の始まりである。
 そこから実に70年にもわたる混乱期を経て、979年に中国をようやく再統一させたのが、宋である。
 今回の放送では、松原客館(まつばらきゃっかん:使節団を迎えるための迎賓・宿泊施設)の通詞である、安井順平演じる三国若麻呂(みくにのわかまろ)が、着任したばかりの為時に「宋人は戦を嫌いますゆえ」と説明する一幕があった。動乱の世が続き、戦には飽き飽きしていたというのは、宋人の偽らざる本音だろう。
 当時、皇帝となった太祖は、独自の動きをしがちだった「節度使(せつどし)」と呼ばれる有力貴族たちを、事あるごとに酒宴に招いている。
 そして言葉巧みに、彼らから兵権(軍事面を指揮する職権)を奪うということをやっていた。再び「五代十国」のような状態にならないように、地方軍団の兵権を皇帝自身が回収していったのである。このことから「杯酒(はいしゅ)を以て兵権を釈(と)く」という故事成語が生まれている。
 そんな宋では、商人たちが勃興。海外とも交易を行い、商業を発展させることで生産力を増大させていった。
 道長も驚くほどカタブツだった為時の逸話
 今回の放送では、為時が漢詩を詠んで、浩歌(ハオゴー)演じる朱仁聡(しゅじんそう)ら宋の商人たちから、激賞される場面があった。
 実際にも、朱仁聡と共にやってきた海商の羌世昌(きょうせしょう)と漢詩を詠み交わしたようだ。平安中期の漢詩集『本朝麗藻』(ほんちょうれいそう)には、為時の漢詩「覲謁之後以詩贈大宋羌世昌」が残されており、「覲謁の後、詩を以って大宋客の羌世昌に贈る」とある。
 朱仁聡もまた実在の人物だ。記録によると、暴力事件や金銭受領トラブルを起こしたとされているが、若狭・越前国に5年も滞在しているということは、それほどの大きな事態には発展しなかったのであろう。
 ドラマでも、今のところ為時は宋人たちとうまく関係を築いているように見える。どちらかいうと、厄介なのは地元の役人だ。玉置孝匡演じる源光雅は、なんとか新しい国司である為時を懐柔しようと、ワイロを送っている。
 だが、為時はそれを拒否。おそらく取り込まれたのであろう前任者とは、スタンスが異なることを見せつけた。そんな為時の融通の利かなさは、娘の紫式部が日記に書き記している。
 寛弘7(1010)年正月2日、藤原道長が邸宅で宴を開催し、為時を招いた。為時には音楽の才もあったので、管弦を弾いてもらおうと考えたようだ。
 ところが、宴が終わるや否や、為時はさっさと席を立ち、帰ってしまったという。その姿に、紫式部道長から「お前のお父さんはひねくれている」と、あきれられている。
 そんな逸話からしても、おそらく実際の為時もワイロは決して受け取らなさそうだ。また、ドラマでの為時は、誰の批判もしないのが清々しい。自分を官職につかせなかった藤原兼家ですらも恨まなかった。
 為時の実直さが、越前の人々にどんなふうに影響を与えるのかにも注目したい。
■ 20年の治世で4000人以上の文官を生み出した「科挙制度」
 一方のまひろは、宋人たちにもてなされながら、その文化の違いを興味津々に楽しんでいる様子が見て取れた。
 それもそのはず、まひろはかねてから中国に興味を持っていた。弟の惟規(のぶのり)から「大学で新楽府(しんがくふ)が流行っている」と聞けば「読みたい」とせがみ、借りて来てもらい、せっせと写している。『新楽府』とは、唐の白居易(はくきょい)らが「楽府」という形式の漢詩を用いて、当時の政治・社会を比喩したものだ。
 さらにさかのぼれば、九州から京都に帰ってきたばかりの藤原宣孝のぶたか)から、中国(宋)の科挙(かきょ)の制度について聞くと、感激したこともある。宣孝はまひろの父・為時(ためとき)の親戚であり、かつ元同僚だ。まひろとも気心知れた仲だったから、ちょっとした雑談のつもりだったのだろう。
 だが、まひろは大胆にも一条天皇に直々にこんなふうに熱弁している。
 「低い身分の人でも官職を得て、まつりごとに加われる。 全ての人が身分の壁を越せる機会がある国は素晴らしいと存じます」
 科挙といえば、隋の時代から始まった官吏登用試験のことだ。家柄に関係なく受験が可能な能力重視の試験とされながらも、当初はまだ貴族の力が大きく、身分の低い者が取り立てられるのは限定的だった。
 そんな中、宋を建国した太祖が、中国統一の目前で急死すると、弟の太宗が内政を固めていき、科挙も大きく発展した。科挙の合格者はうなぎ上りに増えて、20年の治世において、4000人以上の文官を生み出している。
 まひろが憧れた「賢才が登用される科挙制度」は、実質的には宋からだと言えるだろう。宋人との交流が今後、まひろの創作にどんな影響を与えるのかも要注目である。
■ 疲弊する道長を支えた「四納言」の頼もしさ
 そんな時、京では左大臣道長が、多忙な政務にやや疲弊していた。肉体的にはもちろんだが、精神的な重圧も大きかったらしい。
 2番目の妻である源明子が「父が失脚しなければ、兄が左大臣になったやも知れぬと思ったことはございます。されど、この頃思います。兄には左大臣は務まるまい、と……」などと口にすると、道長はこんな弱音を吐いている。
 「俺とて務まってはおらぬ。俺の決断が、国の決断かと思うと……」
 そんなただでさえ大変な時に、宮中にやってきたのが、お騒がせ男である藤原伊周(これちか)である。太宰府に送られる途中で、母に会いたくて都に戻ってきてしまったらしい。
 まだそんな往生際の悪いことを……とあきれながらも、道長から対応を任された町田啓太演じる藤原公任(きんとう)が見せた優しさには、心を打たれた。ちょうど命が尽きてしまい再会はできなかったが、伊周に情をかけて一目だけ母に会わせようとしたのだ。
 公任に加えて、源俊賢(としかた)、藤原斉信(ただのぶ)、藤原行成(ゆきなり)ら4人は、のちに「四納言(しなごん)」と呼ばれることになる。難題の数々に苦悩する道長を、これからもバックアップしてくれると思うと頼もしい。それぞれ個性的なキャラクターなので、活躍が楽しみだ。
 次回「雪の舞うころ」では、佐々木蔵之介演じる藤原宣孝が、まひろと為時に会いに越前にやってくる。
 【参考文献】
『新潮日本古典集成〈新装版〉紫式部日記 紫式部集』(山本利達校注、新潮社)
『現代語訳 小右記』(倉本一宏編、吉川弘文館
紫式部』(今井源衛著、吉川弘文館
紫式部藤原道長』(倉本一宏著、講談社現代新書
『敗者たちの平安王朝』(倉本一宏著、KADOKAWA
藤原伊周・隆家』(倉本一宏著、ミネルヴァ書房
『江南の発展 南宋まで(シリーズ中国の歴史2)』(丸橋充拓著、岩波新書
『偉人名言迷言事典』(真山知幸著、笠間書院
 真山 知幸
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 宋(拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる[1]。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋南宋もともに、宋・宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。
 北宋南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。
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 世界の窓
 宋/北宋
 中国の王朝。960年に趙匡胤が建国し、五代の争乱を終わらせ979年に中国統一。文治主義を取り、官僚制を整備して皇帝専制政治体制を作り上げたが、北方の遼・金との緊張関係は続き、軍事費が増大した結果、財政難に陥り、11世紀後半に王安石が改革にあたった。1127年、金軍に首都開封を占領されて滅亡し、その一族が江南に移り南宋を建てる。それまでの北宋とこの南宋を通じ、商工業の発達、朱子学の成立などの中国文化の展開がみられた。
 遼・北宋西夏
 960年に後周の部将であった趙匡胤が宋を建国、唐以来の節度使(藩鎮)勢力を抑え、皇帝の独裁制を樹立することに成功し、五代十国の争乱を終わらせ、第2代の太宗は979年に中国の統一を回復した。都は開封(汴京)。これは東京(とうけい)開封府と言われ、これ以外に西京(せいけい)河南府、南京(なんけい)応天府、北京(ほくけい)大名府の4都が置かれていた(四都制)。
 宋は五代十国の争乱を終わらせた、漢民族による中国統一王朝であるが、華北の一部の燕雲十六州はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていた。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた金の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政を圧迫した。
 宋の時代的特質
 10~11世紀の五代から宋の成立までの時期は中国史およびその周囲の東アジアの大きな転換点であった。その内容は次のような諸点にまとめることが出来る。
 (1)貴族の時代から庶民の時代へ:魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。
 (2)皇帝独裁政治の時代:唐末から五代の節度使による武断政治は宋の成立と共に解体され、皇帝独裁体制のもとで文治主義に転換し、国家運営は皇帝のもとで、もっぱら財政を主として文人官僚によって行われた。その機構は、尚書省中書省門下省の三省を改めて中書省門下省を合体させ中書門下省(政事堂)が設けられ、皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けるなどの改革を行った。皇帝独裁政治を支える軍事行政機関としては枢密院が重要な機関となり、皇帝直属の近衛兵として禁軍が設けられた。
 (3)貨幣経済の時代:資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。銅銭である宋銭が大量に鋳造されて国内に流通したばかりか、海外にまで流出した。高額取引には銀も用いられるようになり、さらに貨幣の不足を補う紙幣として交子が流通するようになった。首都の開封は商業流通の中心として繁栄し、地方には商業都市である多くの草市・鎮が生まれ、商工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
 (4)海外交易の時代:このような経済発展を背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、明州、温州、杭州などの港市に往来した。これらの海港には貿易管理、徴税を行う役所として市舶司が置かれた。ムスリム商人は唐代以降、大食(タージー)といわれ、主要な港市に居住地として蕃坊を設けてた。また、三仏斉(現在のスマトラ島を中心とした国家。シュリヴィジャヤ王国の後身ともいわれるが異説もある)などは盛んに宋に朝貢した。一方、内陸では、周辺の遊牧民との間で、平時においては盛んに絹馬貿易(茶馬貿易)が行われていた。
 (5)新たな民族の時代:華北に進出した契丹女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできた。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言える。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結した。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となった。
 (6)新しい文化の展開:宋代の社会変動はそれまでの貴族文化に代わり、新しい庶民文化を生み出した。その担い手は、学問や文学、絵画においては上層庶民階級の士大夫であるが、庶民もまた手工芸品(陶磁器)や芸能などで新しい文化を生み出した。特に儒学においては、唐までの訓詁学を手とした形式的な理解にとどまっていた段階から、宋学という世界観や精密な論理をきわめていく学風が起こった。 → 宋代の文化
 遼・西夏との講和と王安石の改革
 遼や西夏に対する防衛、また和平策による贈与は財政負担を強めたため、神宗のときの1070年、王安石を登用して財政その他の政治改革を行って財政再建をめざしたがたが、改革を支持する新法党と改革に反対する旧法党の対立が生じ政治は混乱し、改革は結局失敗した。
 宋の停滞
 王安石の改革が失敗した後、宋では新法党と旧法党の争い、さらに宦官の暗躍などで政治が不安定となるなか、12世紀のはじめの徽宗の時代には政治を顧みないという時期が続き、宮中の贅沢は地方を疲弊させ、社会不安も強まった。元代に生まれて明代に完成され、庶民に喝采された『水滸伝』の舞台となりそのモデルとなった宋江を頭とする梁山泊の盗賊集団が現れたのもこの時期であり、また実際に江南では方臘の乱という農民反乱が起こっている。
 金の台頭
 宋の朝廷の腐敗がすすみ、農民の不満が高まった時期に、北方で金の力が強大になってきた。宋は金の強大化を遼を攻める好機と考え、金と結んで遼を南北から同時に攻めた。しかしそのころ方臘の乱も宋を悩ませていたので、1125年に遼を滅ぼしたのは実質的に金の軍事力であった。
 靖康の変
 遼に代わって華北に金が進出してくると、宋はもはやそれに抗する力を失っていた。1126年、都開封は金に攻略され、翌1127年には上帝徽宗と皇帝欽宗以下の皇族が金によって連行され( 靖康の変)てしまった。ここまでを北宋という。その難を逃れた皇族の一人高宗が江南に逃れ、宋を再建するが、それは南宋と言って北宋と区別する。
 宋代の商工業の発達
 北宋南宋を通じて宋代には、文治主義がとられたこと、江南の開発が進んだことなどを背景に、商工業が著しく発展した。またそれを支える貨幣経済も一段と活発となり、大量の宋銭の発行でも通貨は不足し、北宋では世界で最初の紙幣である交子の発行が始まり、南宋では会子が用いられた。このような商工業の発展は、宋代には都の開封の繁栄以外にも、新しい地方の商業都市として、草市や鎮が多くなったところにも見られる。また都市には商人の同業組合である行や、手工業者の同業組合である作がつくられた。手工業の発展では、現在に続く陶磁器の産地の景徳鎮が生まれたのも宋代である。
 また唐代に一般に普及した茶を飲む習慣が唐代にはさらに広がり、周辺の遊牧民にも広がった。遊牧民の特産である馬と、農耕民の特産である絹や茶を交易する茶馬貿易(絹馬貿易)が平時には盛んに行われた。茶が普及し、輸出品とされるようになったことで、宋王朝は茶の専売制を採用して財政の安定をはかった。
 ヨーロッパに先行した貨幣経済の発展
 中国の唐末から宋の時代、商工業や貨幣経済が発達した10~12世紀は、ヨーロッパではどうだっただろうか。ヨーロッパは中世封建社会が続き、商工業・貨幣経済はむしろ衰えていた。十字軍運動を経た11~12世紀の商業の復活(商業ルネサンス)によって貨幣経済がようやく復活する。しかし、中世を通じヨーロッパでは国家による統一的な貨幣鋳造も、紙幣の発行もなかったことにくらべれば、アジア文明圏の経済と文化の優位性が認められる。宋代の商工業と貨幣経済は、元代にも受け継がれ、13世紀に中国に渡来したマルコ=ポーロなどヨーロッパ人をして感嘆させることになる。
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