👪25〕─1─日本は三元論と二項割合(二項比率)、欧米は二元論と二項対立。〜No.123No.124No.125No.126 * 

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 日本は、多神教で、相対価値観で多様性である。
 三元論と二項割合(二項比率)で、曖昧で、好き・嫌い・何方でもない、正解・不正解・何方ともいえない、善悪・正邪・清濁併せのむ。
 棲み分け。
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 欧米は、一神教で、絶対価値観で一様性、画一、均一である。
 二元論と二項対立で、厳格で、イエスとノーで、善は善・悪は悪、正は正・邪は邪、清は清・濁は濁である。
 弱肉強食。
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 中華は、儒教で、日本ではなく欧米に近い。
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 2017年12月号 Hanada「一定不易  加地伸行
 ……
 愚かな話である。なぜか。欧米の連中は、二項対立でものを考える。陰か陽か、善か悪か、生か死か・・・というふうに。そこから弁証法(二つの正反対の意見の対立や矛盾の論議から新しい考えを生みだしてゆく論法)という考えかたがうまれる。
 例えば二大政党という視点となる。その真似をしようというわけだ。明治以来の欧米猿真似である。
 しかし、われわれ東北アジア人の思考は、二項対立ではなくて二項割合(二項比率)なのである。例えば、陰と陽との二つが対立すると考えるのではなくて、全体を100としてパーセンテージで見るのだ。前回は陰が20%、陽が80%、今回は陰が10%、陽が90%というふうに、俗に言えば、あいつは悪い奴だが、いいところもある、というような見かた、それが日本人なのである。
 世には、時間と空間とという両物差しがあるが、その内の空間を軸に取って見てみると、われわれ日本人は二項割合で物を見る。その延長上からは、対立する二大政党といった観点は出てこない。一強多弱、あるいは二強(連合)多弱・・・となるのが自然なのである。
 もしも二大政党を理想とするならば、二項対立的に立憲民政党社民党共産党らが過半数近くにまで伸びなくてはならないが、そうなっていないではないか。つまり、日本人は、二項対立など望まない、いや思考の内にないのである。この心の深層を知るべきだ」
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 日本は、神・悪魔、男・女、善・悪、正・邪、美・醜、生と死、水と油、勝者・敗者、強者・弱者という断絶的に「分断させる」二元論ではなく、白と黒の間の灰色、完全と不完全の間の未完成、光と影の間の薄明かり、海と陸の間の渚といった橋渡し的に「つなげ」三元論であった。
 昔の日本人は、物事をハッキリさせる勇気がなく、何とか対立を避け、喧嘩しないようにする為に数多くの合間、中間、中性を設けて逃げ回った。
 日本人は、喧嘩が下手である。
 日本に世界のような息苦しさがないのは、イエスでもノーでもない、どっち付かずの曖昧な存在を数多く作り出したからである。
 気の小さい日本人は、物事をハッキリさせず中途半端に放置してきた。
 日本の特性は、我を張らない、欲張らない、執着しない、必要以上に欲しがらないという「まあまあ、なあなあ」の物事に拘らないという曖昧である。
 世界から「個性がない」と非難される、「適当」「ほどほど」「ちゃらんぽらん」「いい加減」である。
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 気の弱い日本民族は、人類が共有できる様な地球規模の普遍的絶対価値観としての、天地創造や人類誕生同様に、死後の世界としての「天国と地獄」を創る事ができなかった。
 ゆえに。日本文明の核である日本中心神話には、高天原に住む天つ神の天国と忌み嫌われたおどろおどろしい神々が住む黄泉の国はあっても、死んだ人間がゆく天国も地獄も存在しない。
 神道とは、常識を持った宗教の中で、非常識な異質の宗教である。
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👪4〕─2─ポジティブなアメリカ。ネガティブな欧州。両面の日本。~No.26No.27No.28No.29 * 

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 2019年10月25日 週刊朝日「パテカトルの万脳薬 池谷裕二
 悪いニュースの数が年々増している理由
 自然災害、殺人事件、経済停滞、児童虐待、国際不和、政治不信、貿易摩擦。気がめいるニュースが連日のように飛び込んできます。どうして醜悪なニュースが続くのでしょう。実際、悪いニュースの数は年々増えています。世間は徐々に劣化しているのでしょうか。人類は滅亡に向かっているのでしょうか。
 ミシガン大学のソロカ博士らが先月の『米国科学アカデミー紀要』に発表した研究を紹介しましょう。この論文の結論をあえて大胆に解釈すれば『ヒトが悪いニュースを好むから悪いニュースがメディアで選択される』となりかす。誤解を避けるために、もう少し正確に説明しましょう。
 ヒトが悪いニュースに反応しがちなことはよく知られています。『ネガティブバイアス』と呼ばれる心理で、動物一般に見られます。危険を察知して警戒することは厳しい自然を生き抜くうえで必須です。嫌悪すべき状況や不快な情報に敏感であることは、いわば利点となります。
 ヒトのネガティブバイアスはどれほど普遍的でしょうか。文化や宗教によって異なるでしょうか。ソロカ博士らは『世間にはアメリカ人は楽天的で、日本人は悲観的だという印象がある』と指摘していますが、実際はどうでしょうか。
 博士らは世界六大陸にまたがる17の国に住む1,156人を対象に、様々なニュースを聞いたときの反応を調べている。BBCの番組から7種のニュースを聞かせ、皮膚の抵抗や心拍のゆらぎを計測しました。その結果、ネガティブなニュースを聞いたときほど皮膚抵抗が下がり、心拍のゆらぎが大きくなることがわかりました。つまり、より揺らすのです。どの国でも似た結果が得られましたから、ネガティブバイアスは人類に普遍的な現象であることが確認できます。
 たとえば、このページの冒頭の段落を再度読んでみてください。わざとネガティヴな表現で綴(つづ)ってみました。このような厭世的(えんせいてき)な記述に接すると平静でいるのは難しいものです。一方、幸せで明るい記事は心地よくはあるものの、感情の動きは、悲観的な記事を読んだときに比べて平坦で落ち着いたものです。
 結局のところ『脳はネガティヴな記事に注意を向けるようにデザインされている』ために、報道関係者は(視聴率や販売部数の観点から)脳への訴求力の高い悲観的なニュースを選定するようになるわけです。同時に、報道関係者自身の脳もまた生まれながらにしてネガティブなニュースに敏感であるという点も見逃せません。二重の要素でネガティブなニュースは増えてしまいます。
 今回の研究から、さらに重要なことが2つわかりました。1つは個人差が非常に大きいということです。平均するとネガティブバイアスの傾向が見られますが、意外なほど多くの人々が、逆の傾向を示し、むしろポジティブなニュースを欲しているのです。これは今後のマスメディアの報道のある方に1つの示唆を与える結果でしょう。
 もう1つは国による差異です。アメリカより日本のほうがネガティブバイアスが強いのは予想通りでしたが、意外なことに、底抜けに明るく前向きな印象のラテンの国々、たとえばイタリア、フランス、ブラジルは、日本よりもさらにネガティブバイアスが強かったのです。何らかの反動なのでしょう。イタリア映画を代表する作曲家ニーノ・ロータの哀愁を帯びた感傷的な旋律が、ふと、頭に響きました」
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 人類は、ネガティブとポジティブの二本並列の螺旋で進化してきた。
 人類は、誕生した揺り籠のアフリカを絶望し泣きながらネガティブに脱出し、不毛な大地や大海に向かって希望を持ちポジティブに旅立った。
 人類の一部が放浪の末に流れ着いた先が、陸の端、地の果て、地と海の狭間にあった絶海の孤島とも言うべき日本列島であった。
 日本民族日本人は、その裔(まつ)えである。
 不毛に向かって旅立つ者は、若い強者・勝者ではなく、病弱・年老いた弱者・敗者だけである。
 勇気ある冒険者や不屈の開拓者とは、そうした後者である。
 日本民族日本人は、その子孫である。
 歴史的民族大移動をした、ゲルマン民族は後者で、モンゴル人は前者である。
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 昔の日本民族日本人は、極端な怖がり・臆病であったが、喜怒哀楽を隠さず能天気なほどのポジティブであった。
 現代の日本国民日本人は、時に異常なほど怒りっぽいが極度のネガティブで、そのネガティブを誤魔化す為に怒りに身を震わせ攻撃的に振る舞う。
 戦後の現代教育は、日本民族日本人的な気質を子供の内から消し去る為に行われ来た。
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 自然災害や人災である大火で生き延びた江戸時代の庶民は、昼、人前では空元気で陽気に笑っていたが、夜、寝静まってから亡くした家族を想い残された寂しさから声を殺してすすり泣いた。
 怒りを鎮める為に、誰かに責任を押し付け、誰かを吊し上げ、誰かを呪い、誰かを罵り、暴れる、という事をしなかった。
 それが本当の日本民族日本人である。
 日本民族日本人は、諦める民族であって、怒る民族ではなかった。
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 日本民族日本人は、太陽=お天道様(女性神天照大神天皇霊・母性神)を崇めていた。
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 怒る民族とは、キリスト教文化圏、イスラム教文化圏、儒教文化圏などの諸国家の諸民族である。
 その中でも、自殺を禁止するキリスト教文化圏では銃乱射による多数の犠牲者を出す凶悪事件が多い。
 現代日本人は、キリスト教文化圏のアメリカ化ではなく儒教文化圏の中国化へと変貌しようとしている。
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 日本は地理的条件からいえば、地球の裏側に栄えている西洋キリスト教文化圏の一員になる事はありえない。
 日本には、中華儒教の毒が少なからず存在する。
 聖徳太子菅原道真などの先人は、日本を中華思想の毒で汚染させない為に中華儒教を日本儒教に作り変えて受け入れた。
 日本民族日本人は、「論語読みの論語知らず」として論語を愛読したがそれ以外の儒教五経には魅力を感じず興味も関心もなかった。
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🦲3〕─1─メディアの陰謀。世俗化する天皇制。覗き見される皇室。アイドル化する皇族。〜No.5No.6No.7 * 

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 昭和天皇は、日本国の統治者として最終決定権を行使していたが、大日本帝国憲法において政治的責任は免除されていたが人としての道義的責任はあった。
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 現代のメディア・報道機関及び学者・教育関係者は、間接的に人道貢献に関与した昭和天皇の名誉や尊厳を回復させる意思はない。
 昭和天皇戦争犯罪及び戦争責任という恥辱・汚名を晴らすきがないどころか、天皇否定的歴史教育を子供たちに教え天皇・皇族、皇室、天皇制度への疑問・嫌悪を植え付けている。
 反天皇反日の象徴が、国歌「君が代」と国旗「日の丸」反対である。
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 日本民族日本人に、思想や哲学はあっても、宗教や主義主張はなかった。
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 日本人には歴史力がなく、架空の作り話的時代劇は好きだが、事実に基づいた歴史は嫌いである。
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 2020年2月14日号 週刊ポスト「ネットのバカ 現実(リアル)のバカ
 呉智英
 世俗化する天皇
 1月25日、国技館天皇一家の大相撲観戦があった。天覧である。場内放送があると拍手が湧き上がった。ラジオのニュースを聞いていると、口笛まで混じっていたようだ。
 いやあ、驚いた。口笛は親しみの表現であり、からかいの表現でもある。友人の結婚式のパーティーで口笛が鳴るのも、こんな美人を嫁さんにしやがって、このヤロー、という気持ちからだ。戦後の象徴天皇性は、女性誌に見られるように芸能人天皇制になり、さらにトモダチ天皇制にまでなった。天皇制の世俗化である。
 私は尊皇の気持ちがあるわけはないが、別な意味で天皇制の歴史や真実が知られなくなるのはよくないと思う。令和改元以来、マスコミも世論も、俗世天皇制の風潮に呑み込まれているようだ。
 産経新聞では昨年来『記紀が描く国の始まり 天皇の肖像』を連載している。昨年2月22日付『国生みと神生み神話』とする囲み記事にこんな一節がある。
 『〔女神〕イザナミから声をかけて国生みしようとした。しかし、しっかりした子が生まれなかったため、高天原に相談すると、男神から声をかけるように言われた』
 この『しっかりした子が生まれなかった』て何だろう。
 岩波古典文學大系『古事記祝詞』では『生まれる子は、水蛭子(ひるこ)。此(こ)の子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき』とし、水蛭子とは『手足はあるが骨無しの子の意』と注釈する。要するに『不具の子』が生まれたので葦船み入れて生みに捨てたのである。
 産経の記事では世論に迎合して原典を改変している。だが、神が『不具の子』を海に捨てようが捨てまいが、俗人が口出しすべきことではないだろう。
 朝日新聞は今年1月5日付で、伊勢神宮の初詣が昨年より4万7,000人増えたと報じ、『令和初』効果だとする。新帝が昨年11月22日に伊勢神宮に参拝したことも大きいだろう。
 しかし、天皇伊勢神宮を参拝するようになったのは、明治以後のことである。明治より前は、天皇伊勢神宮に参拝することはなかった。このことを私は学生時代に直木孝次郎の著作で知った。比較的新しい本では溝口睦子『アマテラスの誕生』(岩波新書)に、こうある。
 『天皇伊勢神宮参拝は』『明治天皇の参拝が』『史上最初のものである』。『持統天皇聖武天皇の伊勢行幸はあったが、その時も神宮への参拝はなかった』。
 理由は、系統が違うからだ。
 溝口は、日本神話の最高神は次の3つを考える。タカミムスヒ、アマテラス、オオクニヌシである。それぞれ由来が別系なのに最高神として扱われている。明治新政府の『人民告諭』は『天子様ハ天照皇大神宮サマノ御子孫様』とする。だが、溝口はアマテラスは『海路』に関する神様だと考える。
 伊勢神宮参拝の記事でこれに触れたものを見ることはなかった」
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 産経新聞iRONNA「眞子さま「早まった婚約」の裏にある皇族女子のアイドル化
 『小田部雄次
 小田部雄次静岡福祉大教授)
 古代社会において、皇族女子の結婚相手は主に皇族であり、律令(りつりょう)の継嗣令では、内親王天皇より五世未満の女子)の相手は、天皇もしくは五世未満の皇族(皇親)とした。時代を経る中で、皇族以外の男子と結婚する事例もみられるようになる。江戸幕府の14代将軍、徳川家茂に嫁いだ和宮親子内親王のように、嫁いでも皇族の身分や称号は保持された。
 一方、皇族男子の相手は、皇族のほか有力豪族の娘などの場合もあった。近代になっても、明治の旧皇室典範第39条には「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とあり、皇族男子の結婚相手は皇族か特定の華族(旧公家や旧武家の上流階層)に限定されていた。こうした伝統と法令により、明治天皇大正天皇はそれぞれ旧公家の一条、九条、昭和天皇は皇族の久邇宮(くにのみや)の女子を皇后とした。
 また、明治天皇の成人した4人の内親王の嫁ぎ先も、みな皇族であった。大正天皇に女子はなく、昭和天皇には4人の成人女子がいた。
 昭和天皇の長女の成子内親王は、戦前に結婚し、皇族の東久邇宮に嫁いだ。次女以下は戦後の結婚となり、新憲法や新皇室典範のもと、皇族ではないが、それぞれ旧華族につながる鷹司家、池田家、島津家に嫁いだ。中でも四女の貴子内親王は昭和35(1960)年に結婚する若い戦後世代であり、結婚直前の誕生日会見で語った「私の選んだ人」は流行語になった。
 当時はまだ見合い結婚が一般的であり、自由恋愛はどちらかといえば「ふしだら」とみられがちなころで、皇族女子が新時代の結婚のあり方をリードした形となった。貴子さんは戦後の自由な社会を体現した皇族女子の代表的存在であったが、誘拐されて身代金を要求された事件もあり、皇族が一般社会に溶け込む難しさの一面もみせた。
 昭和天皇の長男である今上天皇の結婚も大きな話題となった。将来の皇后たるべき女子は皇族あるいは旧華族上流の出身であるべきことという慣行とは異なり、新興財閥の令嬢を皇太子妃としたからである。このため旧上層階層の一部では反発する動きもあったが、民間からは歓迎された。この結婚も、大衆化する日本社会を一歩リードする形となった。
 その後、今上天皇の次男の文仁親王が大学教授の長女である川嶋紀子さんと、長男の徳仁親王が外交官の長女である小和田雅子さんと結婚するなど、天皇家の男子の婚姻相手はいわゆる旧上層階層の家柄に限定されなくなった。今上天皇の長女である紀宮清子内親王も地方公務員の妻となるなど、天皇の女子が民間に嫁ぐ道も開かれた。
 現在、未婚の内親王は皇太子家の愛子内親王秋篠宮家の眞子内親王佳子内親王の3人、女王は三笠宮家の彬子女王瑶子女王高円宮家の承子女王絢子女王の4人の計7人である。今回の眞子内親王の結婚延期は、これらの皇族女子の今後の結婚のあり方にいくつか課題を投げかけたともいえる。
 まず、結婚は両性の合意によって成り立つものであるが、それぞれの属する両家の関係も重要な要素であることだ。これは皇室のみならず、民間でも同様であり、結婚直前になって両家の行き違いなどでトラブルが起きるケースは少なくない。
 次に、皇族の身分を離れる際に支出される一時金は国庫金であり、その使用には一定の国民の理解が必要になることである。今回の延期の理由の一つと推測される週刊誌報道の「400万円」の借財は、一般の資産家の令嬢であれば、その親元などから支出することも可能である。しかし、皇室の場合は、収入の基礎を国庫金としているため、結婚相手の借財返済に充てることに対する国民の理解は難しい。
 結婚相手の金銭トラブルは、皇室側にとって大きな障害となる。結婚した後に、婚家が金銭トラブルに巻き込まれるケースもありうるわけだが、その場合も皇室から婚家に救済の手をさしのべることは容易ではなかろう。
 加えて、結婚前の事前調査の可否が挙げられる。戦前には、警察などを介して相手の家系などを詳細に調査することもあった。民間では今でも結婚前に相手の家庭調査をすることがあるが、皇室は公然とは行えないだろう。
 戦後の新皇室典範第10条には、「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経る」とあり、皇族男子の結婚には一定の審議がある。しかし、皇族女子は第12条に「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とあるのみで、婚姻相手に関する合法的な審査機関はない。相手側の事前調査を誰がどのように行えるかは、大きな課題である。
 さらに、現典範第12条にある「天皇及び皇族」と結婚できる皇族女子が現在いるのかといえばいない。皆近親であり、独身の皇族男子は悠仁親王ひとりなのだ。現典範のままでは、皇族女子は婚姻ですべて皇族の身分を離れることになる。
 しかし、女系容認や女性宮家創設の議論は決着がつかず、この十数年の間、内親王や女王たちは、自身の将来の生き方を自ら決めがたく、政治の流れに翻弄(ほんろう)されている状態にある。眞子内親王の「早まった婚約説」も聞かれるが、そうした心理的焦りを誘発した一因には、内親王や女王が置かれた不安定な法的立場もあったろう。
 最後に挙げておきたいのが、皇族女子の「アイドル化」である。適齢期の女子が雑誌などで話題になるのは、戦前にもあった。しかし、情報化が進む現代にあっては、かなりプライベートな事項まで尾ひれ付きで伝達されてしまう。
 アイドル化して皇室と民間との交流が親密になるのは、プラス面もあろうが、マイナス面も生じよう。過剰に脚光を浴びる存在に複雑な感情を持ち、あらぬ攻撃を加える者も現れよう。アイドル化自体を抑えるのは難しいとしても、アイドルにされる側の脇を固めないと、スキャンダルのターゲットになりやすいというのも、今回の教訓ではないだろうか。
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 南方系海洋民の子孫であった縄文人は、舟に乗って日本海と太平洋の海岸線沿いを西から東へ、そして北へ、蝦夷地・北方領土4島・千島列島・樺太に移っていき、その途にあった川を遡り平らな土地に定住していった。
 その後から、大陸から渡ってきた弥生系帰化人が舟を使い歩いて峠や山を越えて移動し、平和に暮らしていた先住民も縄文人と交わり雑居し乱婚して混血し同化していった。
 鉄器を持った弥生系帰化人の移動は、日本列島の中だけに止まり、そして弥生の大乱が始まった。
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 天皇家・皇室は、政治機関ではなく、宗教組織でもなく、家族集団である。
 皇室祭祀・宮中祭祀とは、天皇の国事行為・公的行事ではなく私的行事で、一子相伝の秘儀としての子孫が祖先を敬う無私無欲な祖先神・氏神の人神崇拝である。
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 明治維新まで、日本民族は存在しなかったし、日本人としてのアイデンティティーなどなかった。
 江戸時代まで、自分は日本民族あるいは日本人と考える人間は、日本には一人もいなかった。
 南から北にかけ言語=方言や生活習慣=文化の違う、琉球人、薩摩人、熊本人・日向人・長崎人・・・出雲人・吉備人・・・土佐人・讃岐人・徳島人・・・難波人・奈良人・京都人・・・江戸人・水戸人・上総人・・・越後人・秋田人・米沢人・・・南部人・津軽人・八戸人・アイヌ人が地域ごとに別れ、交わる事なく没交流的に閉鎖的な生活をして、甚大な災害が発生しよと、大量の餓死者が出ようと、助けもせず我関せずで見捨てていた。
 日本民族日本人が誕生したのは、明治からであってそれ以前にはいなかった。
 当然、日本国語も日本文化もなかった。
 南の薩摩弁と北の津軽弁は外国語のように話が通じなかった。
 日本国語は、明治政府が日本を統一する為に無理して作った新しい言語である。
 何故、日本が、日本人が1つにまとまらなかったかと言えば、日本列島の険しい地形と厳しい自然環境が原因であった。
 そんな中で日本人の移動手段は、自分の足で歩くか小舟に乗るかの2つしかなかった。
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 天皇・皇族・皇室、天皇制度に対して、永遠の弥栄と継続を願う日本人は2割、嫌悪して廃止を求める日本人は3割、有っても無くても何方でも構わないという無関心な日本人は5割。
 つまり、日本人の本心は、天皇・皇室、天皇制度など有っても無くても何方でもかまわないのである。
 特に、江戸時代までの一般庶民には勤皇も尊皇も無縁であり、誰が領主になろうが興味がなく、天皇・帝が誰なのかその名前を知ろうとも思わなかった。
 だが、天皇・皇族・皇室が庶民から忘れられた存在が、両者にとって最も幸せな事である。
 つまり、天皇京都御所に軟禁され世間から忘れ去られて状態が日本は平和で安定しているのである。
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 日本には、俗欲に塗れた強欲な政治権力と宗教権威、そして穢れなき爽やかな空気のような無私無欲の天皇の御威光があった。
 政治権力と宗教権威は、血と死を好んで引き寄せていた。
 天皇の御威光は、血や死を嫌って遠ざけた。
 日本で中華や西洋のような地獄の様な虐殺が起きなかったのは、天皇の御威光が空気のように日本国土に充満していたからである。
 勝者・強者・実力者、征服者・支配者・占領者が自分の力に基づく絶対正義を正当性として、科学的宗教的男系父系Y染色体神話を起源を正統性とすの現天皇家・皇室を廃止して天皇に即位しなかったのはその為である。
 日本は船であり、天皇・皇室はマストに高らかと掲げられた夢と希望を与えてくれる唯一の旗である。
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 永遠のアイドルなど存在しない。
 アイドルは何時かは人気を失い魅力をなくし表舞台から消され、光り輝く活躍をしていた事さえ忘れ去られ、話題にもされなくなり、悪くすると人格さえ否定され嫌われる。
 日本人とは、自分本位で我が儘で傲慢で、そして情が薄く冷たい。
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 戦後の教育は、戦前の教育とは違う。
 特に、1980年代後半からの教育は日本民族を嫌悪どころか怨嗟に近い内容である。
 つまり、日本民族日本人極悪非道な凶悪犯史観に基づく教育である。
 日本人の戦争犯罪を教えても、日本軍の人道貢献は教えない。
 高学歴出身知的エリートは、そうした学校教育を高得点で卒業した優秀な人材である。
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 メディアは、昔ほどの影響力はなくなったといっても、今もなお巧みに国民世論を誘導している。
 国民の知る権利として、ウソの情報や捏造した情報を流している。
 特に、反論できない天皇・皇族、皇室、天皇制度に対し、日本人が憎悪をかり駆り立てるような批判記事や中傷記事などが絶えない。
 それは、メディア・報道機関の中に天皇制度廃絶や天皇家・皇室消滅を目指している勢力がいるように感じる。
 万世一系男系天皇を、科学的宗教的伝統文化的男系父系Y染色体神話を廃止し新作女系母系X染色体物語に変えようという動きに表れている。
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 命を捨てても守るたいと思う熱烈な尊皇派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓、町人)、差別された芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、曲芸師、傀儡師、その他)、軽蔑された賤民(非人、穢多)、差別された部落民(山の民・海の民・川の民)であった。
 上級武士には、尊皇や勤皇という気持ちは薄く、江戸幕府打倒の明治維新天皇中心とした中央集権には消極的であった。
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🏹10〕─1─チンギス・ハーン。第82代後鳥羽天皇。1200年~No.26No.27No.28 

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*日本とモンゴルとの熾烈な外交戦
 1150年 日本の総人口、692万人。
 中国の総人口、戦乱による人口の激減
 1014年 ‥ 北宋   …   5,700万人
 1103年 ‥ 北宋   … 1億2,700万人
 1193年 ‥ 南宋と金 … 1億2,000万人
 1290年 ‥ 元     …    8,600万人
 中国文明とは、自己中心的に強い者、賢い者のみが生き残る実力主義能力主義の世界であり、征服者の奴隷となる事を拒否する者を大虐殺する不寛容な社会でもある。
 易姓革命による王朝の交代たびに、新たな絶対権力者唯一の皇帝は、敵と見なした相手を大虐殺した。よって、大陸の何処を掘っても夥しい人骨が出土する。
 高麗王は、1125年に宋が北方民族の侵略で江南に逃れるや、中国皇帝と同様に天命を受けた皇帝である事を僭称して海東天子と名乗った。
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 蒙古は「おろかで古い」と言う意味で、倭と同様に、中国人(漢族)が周辺蛮族を人間以下の獣と蔑む為に付けた蔑称である。
 自虐的を好む日本人は、中国人から「倭」と軽蔑されて見下されているのに、その意味が理解できずむしろ親しみを込めた呼んでくれていると勘違いして喜んでいる。
 倭奴やイエロー・モンキーやジャップなどと軽蔑されても、名誉を重んじた戦前の日本人とは違って
怒りもしなければ反論もしない。 
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 1206年 モンゴル族のテムジン(鉄木真)は、クリルタイ(部族会議)でチンギス・ハーンの称号を受けた。
 モンゴル帝国の誕生である。
 イスラム教徒商人達は、モンゴル帝国においてモンゴル人に次ぐ第二位の準支配階級として色目人と呼ばれた。
 中華世界では、イスラム教徒は「回族」と呼ばれた。
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 1219年 三代将軍源実朝が、甥の公暁によって殺されるや、清和源氏の直系は途絶えた。執権として権力を掌握した北条氏は、京都から皇族の子供を迎えて、名目だけの実権なき将軍に就任させた。態の良い、人質であった。
 1221年 承久の乱後鳥羽天皇は、退位して上皇となって院政を始めた。政治を武士から取り返す為に、北条義時追討の宣旨を諸国のサムライに発し、挙兵した。
 だが、上皇の呼びかけに応じて馳せ参じたサムライは少数であった。
 多くのサムライは、将軍への恩顧で鎌倉幕府に駆けつけた。
 北条政子は、朝敵とされた境遇に戸惑うサムライ達に涙声で団結を呼びかけた。
 北条義時は、短期決戦を仕掛けて、19万騎の大軍を西上させた。
 後鳥羽上皇は、幕府軍の猛攻に驚き、そして恐怖して戦意を消失し、味方の武将を裏切って恭順を示した。
 官軍は、「錦の御旗」を掲げる事に失敗した。
 官軍方の武将らは、最後まで徹底抗戦しない上皇を見捨てて四散した。
 戦う意思のない者を、腰抜け、負け犬と、軽蔑し、馬鹿にした。
 第85代仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽上皇隠岐に流され、土御門上皇(第83代天皇)は土佐に流され、順徳上皇(第84代天皇)は佐渡に流された。
 北条氏は、中国や朝鮮にならって自ら皇帝=天皇になる意思はなかった為に、後鳥羽上皇の兄守貞親王の皇子を即位させた。第86代後堀河天皇である。
 自分の分を知る「まとも」な日本人は、神の裔・万世一系男系天皇制度(直系長子相続)をとことん理解し、貴い血筋を絶やさず、正しく皇統を残す事に腐心した。
 だが、この後。天皇は、その時々の権力者に良い様に利用される、自分の意志を持たない操り人形、自立出来ない単なる飾りとなった。
 天皇は、絶対的な存在でもなく、政治権力もなければ、宗教権威もなかった。
 男系天皇家の血筋を守り、その皇統を受け継ぐだけの、無力な人間にすぎなかった。
 そこには、現人神という神聖不可侵の宗教権威と、政治及び軍事における最終決定者にして最高命令権者といった政治権力はなかった。
 歴史を知る者はこの真実を知っていたが、架空の時代劇が好きな者はこの事実を理解しない。
 日本人、特に現代の社会及び政治に影響力のある知的エリートは、歪曲され、捏造された、耳障りの良い時代劇を正しい歴史だと盲信して疑わない。
 そして、日本を破壊しようとしている反天皇マルクス主義者は、天皇そのもの自体を地上から抹消しようとしている。
 左翼や左派の市民活動の結果、現代日本では、非科学的な神の血を受け継ぐ万世一系男系天皇家(直系長子相続)を信ずる日本人はあまりいない。
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 北条泰時は、鎌倉の俗世的武家法と京の神聖的公家法は原則的に相互不干渉・相互不介入としたが、武家と公家の間の揉め事は武家法を優先する事とした。
 日本は、この時から、俗世の法律が宗教の権威の上位に立つ事となった。
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 1493年 第103代後土御門天皇は、後鳥羽上皇の怨霊が皇族や幕府の要職に祟っているとして、水無瀬神宮に祟る神・鬼として祀った。
 後鳥羽上皇「この世の妄念にこだわって魔縁(魔物)とならん」
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 1254年 禅僧・覚心は、中国の元で禅宗を学んで帰国し禅僧を広めた。同時に、味噌の製法を持ち帰って各地で味噌造りを普及させた。
 紀州で味噌製法を教えている時、偶然に樽の底に溜まっていた汁が残っていた。
 これが、溜まり醤油の起源である。   ・   ・   ・   
 相澤 理「鎌倉幕府が成立したからといって、武家政権が一元的に全国を支配していたわけではありません。京都にはもちろん朝廷(公家政権)が健在で、公武二元支配が成立していました。……幕府と朝廷とは勢力を東西に二分していました。幕府が東国、朝廷が西国です。……発足当初の鎌倉幕府は、あくまでもローカルな政権で、朝廷との力関係も拮抗していました。それを崩したのが承久の乱だったのです」(『東大のディープな日本史2』P.81)
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 秩父宮「過去において天皇を神様あつかいしたのは、国民の意思ではなかったが、少なくも一部の人の意図に多数の国民が引きずられ、天皇もまた心ならずもそれに巻き込まれた結果だといえるのではあるまいか。国民がこの轍を踏まない事を望み、天皇を人間として身近な親しみ易いものとして置きたいなら、国民の声で、国民の力で、もっと形式張らずに天皇が自由に行動できる様にする事だ」(月刊誌『改造』1952年12月号)

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🏹4〕─1─源平合戦は国家体制を賭けた戦いだった。〜No.8 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本は、武士によって中華(中国と朝鮮)と違う道を歩み出した。
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 平清盛は、中央集権制度。平家主導の日宋交易におよる貨幣=富。密教、聖道門。
 源頼朝は、地方封建制度。源氏主導の本領安堵・領地支配証文・土地領有権承認における御恩と奉公。顕教浄土門
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 司馬遼太郎『この国のかたち』「朱子学のさよう。……日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする〝百姓〟の政権が誕生したからである。私どもは、これを誇りにしたい」
 サムライ日本では、貪官汚吏を増産する儒教科挙の制度がなかったし、中央政権である幕府が租税を絞り取る為に守護大名を任期を決めて派遣する制度もなかった。
 百姓上がりのサムライが、自己責任で行動していた。
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 WEB歴史街道
 源頼朝平清盛源平合戦は国家体制をかけた戦いだった!
 2019年11月25日 公開
 大村大次郎(評論家・元国税調査官
 ※本稿は、大村大次郎著『「土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。
 清盛と頼朝の国家プランには明確な違いがあった
 平安時代の末期、平清盛という軍事貴族が強大な勢力を持ち、朝廷を牛耳ることになる。
 そして、その対抗勢力として、これも軍事貴族源頼朝が現れた。
 両者は各地で激しい戦いを繰り広げる。
 いわゆる源平合戦である。
源平合戦というと、「武家の棟梁であった平氏と源氏が雌雄をかけて戦った」ということで、「戦い」そのものを論じられることが多い。
 しかし、この源平合戦は、単に有力な武家の棟梁同士の戦いというだけのものではない。
 「国家の変革」を賭けた戦いだったのである。
 平清盛源頼朝には、国家プランに明確な違いがあった。
清盛は朝廷のシステムの中での栄達と権力掌握を目指していた。一方、源頼朝はこれまでの朝廷システムではない、新しい国家システムの構築をもくろんでいた。具体的にいえば、国家が管理していた国土を、武家に解放し武家が全国の土地土地を管理運営するシステムに変更するということである。
 ざっくりいえば、平清盛は「中央集権制度」を維持しようとし、源頼朝は「中央集権制度を壊して封建制度にしよう」としていたのだ。
 この時期は、地方の豪族が急激に力をつけていた。
それまで、全国の土地の管理運営は、朝廷から派遣された「国司」と、その地域から選出された「郡司」で行なわれていた。
 国司は、赴任期限が決められており、だいたい4年か6年たてば京都に戻る。
 しかし、郡司はその土地の人間なので、引き続き土地の管理運営に携わる。郡司の業務は世襲化していき、当然のことながらその地方で大きな勢力を持つことになる。
その「郡司」が豪族となっていったのである。
 また国司が、赴任期間が終わっても中央(京都)に戻らずに、その地域の根を下ろし、豪族になるという例も頻発していた。
 また平安時代に急激に増えていた「荘園」に関しても似たような状況があった。
 当時、荘園は全国各地に広がっていたが、その名義上の領主はそのほとんどが京都の貴族だった(寺社などを除いて)。
 つまりは、日本全国の荘園の持ち主は京都に集中していたのである。当然のことながら、京都から地方の田を管理運営するのは非常に困難である。
 となると京都から有能な者を派遣して経営を任せたり、現地の豪族に管理を委ねるということになっていく。
 そして、荘園を任せられたものたちが、だんだん荘園内で実権を握っていく。そういうものたちのことを「在地領主」や「名主」という。
 「在地領主」や「名主」たちは、最初は、荘園領主の命令に従っているだけだったが、やがて荘園領主の支配に反発したり、支配から抜け出すようになってきた。
 そういう「在地領主」や「名主」も、平安時代の治安の悪化に伴い、各自が強固に武装するようになった。「在地領主」「名主」たちの間では、土地の所有権などを巡って、小競り合いをするようになり、必然的に武力が必要となったのだ。
 彼らは、馬や武器を揃え、家人たちに訓練を施した。
 こうして、地方に「武家」が誕生していったのである。
 平氏や源氏などの軍事貴族というのは、この地方の武家たちを統率し、内乱の鎮圧などにあたることで勢力を伸ばしていったのだ。
 平清盛は、この武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとしていた。土地の支配権はあくまで朝廷や中央貴族にあり、各地の武家は朝廷や中央貴族たちから土地の管理を委ねられているにすぎないという姿勢を崩さなかったのだ。
 しかし源頼朝は、武家たちに土地の所有権を認め、朝廷や中央貴族たちの支配から解放させようとした。
 源頼朝は、武家たちに対してその約束をすることで、武家たちの支持を得ることに成功し、平氏をしのぐ軍勢を率いることができたのである。
 あくまで貴族として朝廷を支配しようとした清盛
 平清盛の国家プランはどういうものだったのか?
 平清盛は、ざっくりいうと「武力を持った藤原道長」というようなものである。つまりは、藤原道長をもう一段パワーアップしたということだ。
 平清盛の父、平忠盛は、各地の国司を歴任していた。
 越前守(越前の国司の長官)を務めているとき、日宋貿易が大きな富を生むことを知ったといわれている。当時、越前の敦賀港は博多に次ぐ日宋貿易の拠点だったのだ。忠盛は、貿易に積極的に携わるようになり、巨万の富を築いたとされる。
 父の背中を見ていた平清盛は、当然、日宋貿易に精を出す。
 当時の日宋貿易の最大の拠点は、九州の博多だった。
 平安時代日宋貿易は、まず朝廷が買い上げる商品を選別し、残った品物が商人の手で各地に販売されることになっていた。だが、品物の受け渡しを朝廷が完全に管理できているわけではなく、国司になれば役人や貿易商人を通じて、朝廷よりも優先的に貴重な品物を手に入れることもできたようである。
 つまりは、「現場を仕切っているものが一番強い」ということである。
 平清盛は、保元3(1158)年に大宰府の「大宰大弐」という官職につくなど、貿易の現場に深く携われるポストを奪取していった。
 また清盛は、博多に日本初となる人口港(袖の湊)をつくったとされている。
 そして清盛は、博多よりもはるかに京都に近い兵庫に、貿易拠点となる大輪田泊(現在の神戸港)を整備した。大輪田泊には、宋や全国各地からの産品が集積され、畿内の一大交易拠点となった。現在も神戸は国際港として日本の流通拠点となっているが、それは清盛の事業に起源があるのだ。
 清盛は、この日宋貿易で巨額の富を築いた。
 この当時、宋から大量の銅銭が輸入され、それが日本に貨幣経済を根付かせることになったが、この銅銭の大量輸入も平清盛が手掛けたとみられている。
 清盛はこの財力を背景にして、後白河天皇の信任を得て太政大臣にまで上り詰めた。さらに娘を天皇に嫁がせることでさらに権力を強化した。
 各地の有力国司の地位も平氏の一族が占めた。平家一族に日本中の富、利権を集中させ「平家に非ずんば人に非ず」とさえ言われたのである。
 この辺の経緯を見ても、平清盛武家政権をつくったのではなく、有力貴族として朝廷政権を牛耳っていたにすぎないということが見て取れる。
 源頼朝の土地改革とは?
 一方の源頼朝の国家プランはどういうものだったのか?
 鎌倉幕府をつくった源頼朝というのは、よく知られているように、少年時代に島流しにあってしまう。
 平治元(1159)年、頼朝の父、義朝が平治の乱平清盛に敗れ、戦いに参加した一族はことごとく殺された。頼朝だけは年少だったため命は助けられたが、伊豆に流されてしまうのだ。
 頼朝の伊豆での生活は20年にも及んだ。
 だが治承4(1180)年、二条天皇の弟の以仁王が、朝廷を牛耳る平清盛を倒すために、全国の源氏一族に秘密の挙兵命令を出す。
 頼朝は、それに応じて伊豆で挙兵するのである。
 頼朝は20年も伊豆に流されており、武家の統率力も薄れていた。
 にもかかわらず、どうやって東国の武家勢力を結集させたのかというと、武家の権利を朝廷に認めさせたのである。
 頼朝は、寿永3(1184)年2月25日、朝廷に対して4箇条の奏聞(提案)をしている。
 そのうちの第2条で、「平家討伐の命令を下してほしい」と述べている。
 朝廷の討伐令があれば、全国の武士団を動員することができるからだ。
 そしてこの中で、頼朝は「戦においての武家への勲功は自分が行なう」としている。つまり、「戦に参加した武家に、朝廷が勝手に恩賞を与えてはならない」としたのだ。
 これは実は、旧来の国家システムからは大きく逸脱したものだった。
 旧来の国家システムでは、軍を動員したり、戦争を指揮するのは朝廷であり、勲功も当然、朝廷が行なうものだった。
 頼朝は、このルールを変えて、自分が武士団を管理統括し、朝廷は武士団のことには口出しできないようにしようとしたのである。武家を朝廷から切り離すことで、朝廷の影響力を排除し、自分が武家の長となって、新しい体制をつくろうということである。
 頼朝は他にも様々な権限を朝廷の後白河上皇に迫った。
 全国に守護・地頭を置く権利や、全国の武士を指揮したり褒賞や処罰を与える権利なども獲得していった。頼朝は、朝廷の持っていた徴税権、軍事権、警察権などを次々に獲得していき、実質的な「政権担当者」となっていったのである。
 それは各武家の土地の所有権や自治権を事実上、認めさせるものでもあった。頼朝が徴税権、軍事権、警察権などを握っているのだから、頼朝が各武家の権利を認めさえすればそうなるわけだ。
 それにしても、後白河上皇はなぜこれほど気前よく、源頼朝に朝廷の権限を与えたのか?
おそらく平氏のあまりの権勢を恐れ、とにかく平氏を倒したいという思いが強かったのだろう。後白河上皇平清盛に対して警戒感を抱き、平家の力を削ごうとしたが逆に清盛に攻められ幽閉されてしまったという経緯がある。
 これ以上、平氏をのさばらせておくわけにはいかないという気持ちが、源頼朝に対する譲歩になったというわけだ。頼朝の方は、後白河上皇から譲渡された権限を最大限に解釈し、まんまと鎌倉政権をつくってしまったのだ。」
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 2016年4月20日 読売新聞「『吾妻鏡』現代語訳版が完結 鎌倉時代の歴史書
 五味文彦・東大名誉教授『武家政権に必要なもの詰まる』
 鎌倉幕府はどのように誕生し、政治を行ったのか。鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』の現代語訳版(五味文彦・東大名誉教授ら編集、16巻と別巻 吉川弘文館)が3月、2007年の刊行スタートから約10年がかりで完結した。
 吾妻鏡は、源頼朝が1180年に平家を討つため挙兵してから、6代将軍だった宗尊(むねたか)親王(1242〜74年)が謀反の疑いで京に追われるまでを編年体で描いている。編まれたとされるのは1297年以降で、幕政を担う御家人が所領争いを繰り広げていた時代だった。幕府の中枢の御家人らが、各家の由緒を示す狙いで編纂したとみられている。
 和風漢文で書かれ、干支(えと)と天気、時刻を記した後、何が起きたかを記録している。命令文書などが載せられている場合が多い。
 朝廷、貴族に取り入りながら台頭した平安末期の平氏政権とは異なり、鎌倉幕府は東国の武士が自力で打ち立てた本格的な武家政権吾妻鏡は、その成立の過程や、所領を与えながら家臣を束ねていく様子を記録している。訳の中心を担った五味さんは『幕府の作り方や朝廷との対し方、家臣との関係など武家政権にとって必要なものが詰まっている』と評価する。
 鎌倉幕府では、正式な評定ではなく内密な寄り合いで取り決めがなされることも多く、五味さんは『現代の国会と閣議と似ており、「政治とは何か」を考える上で見逃せない内容だ』と吾妻鏡の今日的な意義を強調する。
 訳を進める中で新たな発見もあった。例えば、歌人で随筆家の鴨長明(1155頃〜1216年)は、1211年に鎌倉幕府に任官しようとして失敗し、京に戻って隠居生活を送りながら『方丈記』を書いたというのが定説で、吾妻鏡にも11年10月に長明が3代将軍・源実朝と会ったと書かれている。だが、長明の歌論集『無名抄』などと照らし合わせた結果、五味さんは『吾妻鏡の記述は誤りで、実際には長明は12年3月に方丈記を書き終えた後、東国に修行に赴く意志を持って10月に鎌倉に来たと考えられる』と判断し、失意の中で方丈記が書かれたという見方に疑問符を付ける。
 五味さんは、『幕府が御家人に所領を保証することを、安心を意味する「安堵」と呼んだように、鎌倉時代は日本人の身体感覚にふさわしいもので制度が作り上げられた時代。その後何百年も武家政権が続く基礎となった。その歴史である吾妻鏡は、日本の中近世史を考える上で欠かせんない史料で、古典を読み解く上でも重要な指標となる』と話している。(文化部 武田裕芸)」
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 公家の相続は、女性相続であった。
 武士の相続は、男子相続であった。
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 娘の政略結婚では、
 平清盛の場合は情があって、家族・親族・一族・家門に加え、困った時は助けた。
 源頼朝の場合は情がなく、価値ある相手を身内・家臣に加え、利用価値がなくなれば強制的に離縁させ、敵に回りそうだと判断すれば娘諸共に相手を無慈悲に殺した。
 源頼朝は武士であり、平清盛は武士になりきれなかった。
 武士における政略結婚は人質である以上、約束を違えれば報復として娘が殺されても文句は言わなかった。
 それが、武士の家に生まれた女性の運命であった。
 故あって敵対して嫁いだ娘が殺されても、後日、和解すれば娘が殺された事を忘れて友人として付き合った。
 或いは、娘が嫁ぎ先の一員として攻めてくれば容赦なく殺した。
 それが武士の作法であった。
 それが武士の娘の覚悟で、裏切った実の親を恨まず、自分を処刑する夫とその家族を恨まなかった。
 一言、「世の習い」であった。
 人質として送られた男子も、同じ運命を辿った。
 武士にとって、命は意味があっても価値は鴻毛よりも軽かった。
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 御恩と奉公(ごおんとほうこう)とは、中世の日本において、主に武士の主従関係を構成した要素・概念。中世の武士間の主従関係は、決して片務的なものではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていた。ここで、主人が従者へ与えた利益を御恩といい、従者が主人へ与えた利益を奉公といった。平安時代中期~後期から武士層に「御恩と奉公」の関係が徐々に形成されていたが、本格的に「御恩と奉公」が成立したのは、源頼朝が関東武士の盟主=鎌倉殿となってからである。以降、御恩と奉公の関係性は、鎌倉幕府の成立基盤として機能し続け、その後の室町幕府江戸幕府にも引き継がれた。
 御恩
 御恩の具体的な内容は、主人が従者の所領支配を保障すること、または新たな土地給与を行うことである。前者は本領安堵(ほんりょうあんど)と呼ばれ、後者は新恩給与(しんおんきゅうよ)と呼ばれた。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿が御家人を地頭に任命するという形で本領安堵新恩給与、すなわち御恩がほどこされるようになった。
 奉公
 奉公の具体的な内容は、従者が主人に対して負担した軍役・経済負担などである。鎌倉幕府が成立すると、御家人は鎌倉殿に対して、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警固番役長門警固番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たした。
 沿革
 平安期の10世紀頃、大きな社会変化を背景として、朝廷は、徴税・軍事をもはや官司機構で担うのではなく、国司や富豪などへ請け負わせる官司請負制への転換を進めていた。特に争乱の多かった関東では、在地の富豪や豪族が公的な軍事力を担うようになっていた。こうした状況下で、関東を中心に武士団が形成されていったが、武士団では主人がトップに立ち、家子・郎党と呼ばれる従者たちを率いていた。こうした主従関係を結びつける契機となったのが、御恩と奉公の関係性である。主人・従者の両者は、御恩と奉公という互恵関係を結ぶことで、一定の共同体(武士団)を作っていったのである。ただし、当時の主従関係は割とルーズなもので、複数の主人に仕える、一時的にだけ主従関係を結ぶ、といったことも多く見られた。
 平安最末期に関東武士全体を代表する鎌倉殿という地位が登場すると、御恩と奉公に基づく主従関係は、次第に排他的(鎌倉殿以外の主人を持たない)かつ永続的なものとなり、一層強固になっていった。その後、御恩と奉公は明治維新まで続く武家社会の基本的な成立要素として機能した。
 なお、御恩と奉公による主従関係について、中世ヨーロッパに見られた封建制(feudalism)との共通点に着目して、封建的主従関係と理解する見解がある。その一方、ヨーロッパ封建制と本質的に異なる、日本独自の主従関係であるとする見解も出されている。
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 平氏は、家を大事にし、家族・親族・一族の団結が強く、失敗しても助け合い、庇い合った為に滅びる時は家族郎等共に滅んだ。
 それが、壇ノ浦の戦いである。
 源氏は、家を大事にせず、家族・一族よりも家臣団を優先した為に親兄弟・親戚・親族・血縁者による殺し合いを繰り返し、滅びる源氏があれば残る源氏もあった。
 それが、一族の木曽義仲、兄弟の源義経源範頼、子供の源頼家源実朝、孫の公暁らの非業な最後である。
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 平清盛平氏とは、伊勢平氏一門の事であった。
 源頼朝の源氏とは、河内源氏一門ではなく自分の血の繋がった子供の事であった。
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 平清盛の家族とは、男系父系と女系母系の両系であった。
 源頼朝の家族とは、男系父系のみであった。
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 武士とは、奈良・平安時代の名門・源平藤橘を男系父系の家祖とする家系をさし、天皇家・皇室を武力で守護する暴力集団の事である。
 源平藤橘は、男系父系家系天皇家・皇室と深い絆で繋がっていた。
 この男系父系家系と深い絆を持たない者は、武士ではなく夜盗・盗賊の殺人鬼の類である。
 天皇家・皇室を否定する事は、武士を否定する事である。
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 武士が日本を支配した結果、日本では、中国の様な他国への侵略と虐殺や朝鮮の様な領民への搾取と虐殺は起きなかった。
 つまり、日本では中国・朝鮮のような支配者・権力者・勝者・領主・強者による理不尽な人災は少なかった。
 何故なら、武士とは「一所懸命」に、祖先が開墾した土地だけを後生に大事に守り子孫に残す土着民で、武力で領地を拡大して豊かになろうという欲望を持っていなかった。
 武士や百姓から土地を借金の担保で奪って手に入れて金を稼いで巨万の富を築こうとしたのは、利に聡い強欲な高利貸=商人である。
 それ故に、武士や百姓は商人を軽蔑・差別し、貨幣・金は先祖代々の土地を無慈悲に奪っていく不浄と嫌った。
 日本民族日本人は、自然・大地・土地と共に働いて生きる事を最上の美徳とし、金の為に自然を破壊し大地を穢し土地を潰す事を罪悪と嫌悪した。
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 日本の変革・改革・改造の活力は、中央・都市のグローバルではなく地方・農村のローカルにあった。
 つまり、いつの時代でも日本を再生・再建、復興・復活、新生させるのは「地方土着」である。
 地方土着が存在する限り日本に立ち上がる事ができるが、地方土着がなくなったとき日本は滅びる。
 地方土着の象徴が、農業の主宰者である万世一系男系天皇の皇室である。
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🏹8〕─1─末法の地獄から日本を慈悲仏教で救おうとした鎌倉新仏教。~No.20・ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の仏教が異端仏教として、中国仏教や朝鮮仏教と違う仏教になったのは鎌倉新仏教からである。
 日本仏教は、中国仏教や朝鮮仏教とは違うのである。
 日本仏教は、御仏が罪業で苦しむ衆生を慈悲で救済と説いた。
 御仏の救済には、自力の聖道門と他力の浄土門があった。
 中国仏教は、弥勒菩薩が救いに来るという革命宗教であった。
 朝鮮仏教は、中国仏教に近かった。
 日本仏教は、政治色が強い中国仏教よりもインド・チベット中央アジアの諸仏教からより純粋な慈悲信仰の大乗仏教を求めた。
   ・   ・   ・   
 親鸞。「悪人正機説」。善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 善人は助けられなくとも自力で極楽に行けるが、悪人は他力でしてしか極楽に行けない。
 悪人とは、道徳的や法律的な犯罪者ではなく、生まれ持った煩悩に苦しみ苛まれる衆生の事である。
 阿弥陀如来は、誓願として、そうした哀れな悪人を救って極楽往生に導くのである。
 その方法は、神懸かり的呪術や密教的加持祈祷ではなく、難行苦行の修業でもなく、ただ阿弥陀如来の名号を念仏を唱えるだけでよい。口に出さなくても、心の中で念仏を申し上げるだけでも、人は救われる。
 鎌倉仏教は日本独自の仏教であり、高麗仏教とは縁もゆかりもない異質な仏教である。
 当然。日本の仏教は、朝鮮仏教とは無関係である。
 そもそも、朝鮮時代は仏教は弾圧され、人里離れた山奥に追放されていた。
 仏教に関して、日本が朝鮮に感謝する所はあまりない。
   ・   ・   ・   
 釈迦「自灯明、法灯明」。
 上座部仏教小乗仏教は、人が死んだら49日間は徹底に死者を弔ったが、49日過ぎたら骨を山野に撒き、そして忘れた。
 大衆部仏教・大乗仏教は、日本に伝来し葬式仏教となり、49日過ぎても一周忌や三回忌と死者を忘れる事なく法要を続けた。
 日本の祈りとは、我を捨て無心となり、無力の自分を見つめ、相手の事を自分の事のように心で念ずる事であった。
 「祈り」と「願い」は、本質に於いて異なる。
 インド発祥の仏教は、日本の神道にであう事で、自然にあるがままの姿を自然のままに受け入れた。
 悲しい時は、悲しみに打ちひしがれて深く沈み込んでさめざめと泣いた。
 無常の世の中に生きるお互いの身の上を思い、相手の悲しみに共感し苦しみに同情し痛みを分け合い、相手の事を思いやった。
   ・   ・   ・   
 青少年のための仏教入門
 仏教へのざない
 再考仏教伝来仏教へのいざない
 朝日新聞社 OPENDOORS
 東京大学仏教青年
 第17回 日本仏教史―仏教伝来から鎌倉仏教まで―
 3. 平安時代
 平安時代には、仏教は密教が中心となりました。密教はインドのヒンドゥー教の影響を強く受けて成立した仏教で、現実肯定を背景に、 今生きている段階で成仏できるという即身成仏(そくしんんじょうぶつ)の思想を大きく主張します。日本では、この現実肯定の思想は、一般の人にも仏となれる性質があるという仏性論と一緒になってさらに強調され、 院政期には、すでに衆生は仏であるという本覚思想(ほんがくしそう)へと発展します。
 日本の密教は大きく分けて、天台宗系の台密(たいみつ)と真言宗系の東密(とうみつ)の2つに分かれます。天台宗真言宗は、平安時代になって開かれたものです。
 天台宗を開いたのは最澄(さいちょう)です。最澄は、天台を学ぶために唐に渡り、その地で天台の他に密教、禅、戒律を学びました。その後、日本に帰り比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗を開きました。 最澄はまた、従来の厳しい制約の多い小乗戒に対して、より制約の少ない世俗向けの大乗戒を重視し、それを授ける戒壇比叡山に設けるよう朝廷に働きかけました。 この大乗戒による戒壇の設立が認められたのは、最澄の死後まもなくのことです。
 真言宗を開いた空海(くうかい)もまた、最澄と同じく唐に渡り密教を学び、戻ってきてから高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を、京都に東寺(とうじ)を建てました。 空海の学んだ密教は、日本の仏教界に大きなインパクトを与え、貴族や僧侶らが密教を学びに来ます。先に天台宗を開いた最澄もまた、その中の一人でした。 こうして、空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。
 天台宗では、最澄の後に円仁(えんにん)、円珍(えんちん)が唐に密教を学びに行きます。円仁はまた念仏も伝えました。 その他の思想を包括する天台の思想を受けて、比叡山では天台の他に、密教浄土教、禅なども学べる総合大学として活躍します。 鎌倉時代に浄土宗や日蓮宗が誕生しますが、その開祖らも初めは比叡山で学び、後に独立した人たちです。
 密教では加持祈祷(かじきとう)が行われます。その呪術的な力を利用して、現世利益を成就するのが祈祷ですが、貴族を中心に受け入れられました。 奈良時代の仏教が朝廷による鎮護国家と学問を中心とする仏教であったのに対し、平安時代の仏教は、現世利益を主とした貴族の仏教でした。その後、一般民衆を対象に救いを説く鎌倉仏教の時代へと移行します。
 平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。 仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、 来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。 その代表的な人物に、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書いた源信(げんしん)がいます。 今の浄土宗や浄土真宗では、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるものだけを指しますが、源信の時代には、阿弥陀仏を心に思い描く念仏も説かれます。

 第18回 日本仏教史―鎌倉仏教から昭和の仏教まで―
 4.鎌倉時代
 鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。 そこには二つの方向性が見られます。一つは、原点に回帰し戒律の復興と禅の実践を求める方向です。二つは、旧来の仏教と袂を分かち新しい仏教を模索する方法です。 一つめの方向は、宋の影響を受け南都での戒律復興運動や臨済宗曹洞宗禅宗の興隆につながりました。二つめの方向は、法然の浄土宗、親鸞浄土真宗日蓮日蓮宗の開宗へとつながりました。
 浄土教については、最初に法然(ほうねん)が『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著し、万民の行える唱える念仏のみを主張し、京都で布教活動を行います。 その弟子の親鸞(しんらん)が法然の教えを受けて浄土真宗を起こし、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。法然親鸞の浄土宗は鎌倉幕府によって弾圧されましたが、信者の数は増え続けます。 また後になって一遍(いっぺん)が時宗(じしゅう)を開いて、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を広めました。
 禅宗については、栄西(えいさい)に先立って、能忍(のうにん)が達磨宗(だるましゅう)を開いて布教活動をしていました。 栄西密教の影響を強く受けながらも宋に渡り臨済禅(りんざいぜん)を伝えます。当初は法然と同様に政府から弾圧を受けましたが、その後幕府に接近し、その加護を受けるようになります。 栄西の後に宋に渡り曹洞禅(そうとうぜん)を伝えたのが、道元(どうげん)です。彼は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の著者として知られていますが、そこには道元の深い哲学的思想が表れています。 道元曹洞宗が修行そのものを悟りと見なしひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」を説くのに対し、栄西臨済宗では公案(こうあん)という禅の問題集を用いた看話禅(かんなぜん)であるという特色があります。
 日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く鎌倉時代後期に成立しました。鎌倉時代後期には、飢饉や疫病の流行が相次いで起こるようになります。 また元寇(げんこう)といった対外的な危機も生じ、社会不安が再び高まりました。そのような時代背景を受けて、日蓮(にちれん)は末法の時代にふさわしい教えを『法華経』に求め、『法華経』の題目を唱えることを説きます。
 従来の仏教側の活動としては、最初に貞慶(じょうけい)があげられます。貞慶は興福寺の僧侶で、法然の専修(せんじゅ)念仏を批判しながらも、禅や念仏の影響を受けて観心などの実践を説いて、南都の仏教に大きな影響を与えました。 また、天台では慈円(じえん)が比叡山の復興に尽力します。慈円末法思想の観点から武家社会の興隆をまとめた歴史書愚管抄(ぐかんしょう)』を書いたことで知られています。 その後、叡尊(えいそん)とその弟子の忍性(にんしょう)による戒律復興運動が起こりました。 叡尊は、受戒の儀式を伴わない自誓受戒(じせいじゅかい)をし、忍性と共に各地で戒律復興と社会奉仕活動に従事しました。
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 ウィキペディア
 浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
 概要
 浄土について
 「浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。浄土教では浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
 阿弥陀信仰
 「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。 日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
 西方信仰
 阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる。極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる。
 他力
 仏教経典を集大成した大正新脩大蔵経では、他力本願の語は日本撰述の経解・論書にしか見られないものである[6][信頼性要検証]。また、他力門・自力門の語は中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるが、漢訳経典には表れない[7][信頼性要検証]。
 詳細は「他力」を参照
 関連経典
 日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
 日本
 平安時代末期
 「末法」の到来
 「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。
 この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。
 平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂白水阿弥陀堂などがある。
 鎌倉時代
 平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)
 また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
 末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。
 室町時代以降
 蓮如
 本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
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 鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。
 概要
 鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
 これに対し、「旧仏教」(南都六宗天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった。
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🏹3〕─1─末法の地獄から日本を地位と金による豊かさで救おうとした平清盛。〜No.5No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日宋交易で儲けて救おうとした平清盛
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 平清盛は武士による社会を築こうとしたが、その子供や一族は公家の社会に戻ろうとした。
 つまり、平清盛の改革は一代限りで失敗する運命にあった。
 源頼朝が築いた武士の世は、徳川慶喜大政奉還する慶応3年10月14日(1867年11月9日)まで続いた。
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 デジタル大辞泉の解説 「まっぽう‐しそう〔マツポフシサウ〕【末法思想
 仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」
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 三省堂 大辞林 第三版 索引トップ用語の索引ランキング凡例
 まっ ぽうしそう -ぽふ -さう 【末法思想
 〘仏〙 釈迦入滅後、五百年間は正しい仏法の行われる正法(しようぼう)の時代が続くが、次いで正しい修行が行われないため、悟りを開く者のない像法(ぞうぼう)の時代が一千年あり、さらに教えのみが残る末法の時代一万年を経て、教えも消滅した法滅の時代に至るとする考え。各時期の長さには諸説ある。「末法灯明記」などにより、日本では1052年を末法元年とする説が多く信じられた。平安末期から鎌倉時代にかけて広く浸透し、厭世(えんせい)観や危機感をかきたて、浄土教の興隆や鎌倉新仏教の成立にも大きな影響を与えた。
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 NHKテキスト View
 平安時代の終末思想、「末法」の恐怖とは
 2017.11.07
 平安の人々が危機感を募らせた末法(まっぽう)が永承7年(1052)に到来。死後への不安から、天皇や貴族も仏教に帰依し、極楽往生を願った。その翌年に建立されたのが、平等院鳳凰堂だった。この末法思想について、日本美術を主な領域とするライター、エディターの橋本麻里 (はしもと・まり)さんに聞いた。
  *  *  *
 桓武(かんむ)天皇が平らかに安らかにという願いを込めて平安京を造営してから、平氏が滅亡し、源頼朝(みなもとのよりとも)が守護・地頭を設置する(1185年)までの約400年。「泰平」の江戸時代ですら250年なのだから、後付けの時代区分とはいえ、天皇をいただく貴族たちの時代は長い分だけ、複雑な軌跡を描いた。そしてその道筋は必ずしも「平安」ではなかったのである。
 東北での大地震津波、富士山の噴火、京都を襲った群発地震天然痘など疫病の流行、そして干ばつや飢饉(ききん)、戦乱。逃れられない現世の災厄、そして死後への不安から、天皇から貴族までが深く仏教に帰依し、救いを願った、まさに「不安の時代」なのだ。
 この時代を席巻したある種の「終末思想」が、末法の到来だった。20世紀末に「ノストラダムスの予言」が信憑性をもってささやかれたように、釈迦(しゃか)の死から1000年を正法(しょうぼう)、続く1000年を像法(ぞうほう)と呼び、以後は仏の教えのみあって修行する者も悟りを得る者もいない、暗黒時代=末法に至るとする「末法思想」が広まっていた。天災ばかりでなく、奈良では興福寺の僧兵が東大寺を襲い、京都では延暦寺園城寺の争いが熾烈(しれつ)を極め──と、人々を導くはずの寺僧の横暴は、仏法の衰えをまざまざと感じさせたはずだ。
 この苦しみ多い六道輪廻(りくどうりんね)の世界を離れ、阿弥陀如来(あみだにょらい)のおわす浄土へ生まれ変わることができるようにという願いに応えたのが、阿弥陀の浄土を観想(かんそう/視覚的に思い描くこと)することで往生できるとする、浄土教だった。浄土の教えを説く経典自体は、6世紀の仏教伝来とともに日本へ伝わっているが、平安時代中期に比叡山横川(ひえいざんよかわ)の僧・源信(げんしん)が『往生要集(おうじょうようしゅう)』、いわば極楽浄土のガイドブックを著したことから、浄土教が大きな隆盛を見せるのである。
 ■『NHK趣味どきっ! 国宝に会いに行く 橋本麻里と旅する日本美術ガイド アンコール放送』より
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 PHP Online 衆知
 平清盛と日宗貿易〜宋国と対等な海の都を
 2012年02月24日 公開
 秋月達郎(作家)
 『歴史街道』2012年2月号より
 宋人たちの目を瞠らせた清盛の美
 嘉応元年、すなわち西暦にして1169年の頃、瀬戸内の波はどのような色をしていたのだろう。
 恐らく透き通るような瑠璃色に煌めいていたことだろうが、その光り輝く波の上を、見上げるような船が航ってくる。頑丈な竜骨をもった宋船である。
 積まれているのは数え切れないほどの宋銭を始めとして、揚州の金、荊州の珠、呉都の綾、蜀江の錦のほか、陶磁器、香料、薬品、筆、硯、書画、経巻といった正に七珍万宝と呼ばれた品々だった。陸揚げした後には、砂金、銅、硫黄、木材、扇、屏風、漆、蒔絵、日本刀などが積み込まれる。
 船楼を目が痛くなるほど鮮やかな赤や黄の原色に塗り籠められた宋船は、やがて真紅に包まれた壮麗な社の正面へと導かれた。安芸の厳島神社である。濠気に包まれたこの国を代表する建築物といっていい。
 ―― おお。
 と、声を上げるところからしても、宋船に乗り込んだ商人や水夫(かこ)は、海の彼方に浮かぶ小さな島国が、予想を遥かに超えた文化を持っていることに驚嘆したに違いない。
 こうした貿易相手の目を瞠らせるような仕掛けを創り出したのは、当時、静海入道前太政大臣朝臣清盛公と呼ばれた平清盛にほかならない。祖父正盛や父忠盛に倣って西海を拠り所とした清盛は、安芸守を拝命した頃に厳島神社主祭神である宗像三女神を信奉するようになり、太政大臣を辞して摂津の福原に別荘「雪見御所」を造営するのと時を一にして、老朽化していた厳島神社の大改修を行なった。
 海上楼閣という、これまでに誰一人夢にも思わなかった建築物を造り上げたのは、清盛が備えていた美意識によるものであろう。清盛の美に対する才能は当社に奉納された平家納経の芸術性の高さからも容易に察せられるが、同時に、清盛は土木技術においても抜きん出た才能を持っていたことも充分に想像できる。それは以下のごとく、伝承としても遺されている。清盛が位人臣(くらいじんしん)を極め、太政大臣の職に就いた折、
 「かえせぇ、もどせぇ」
 金の扇を振り上げながら、西海に沈みつつある夕陽に叫んだという。今の広島県呉市の「音戸の瀬戸」でのことで、岩上、立烏帽子直垂(たてえぼしひたたれ)姿の清盛は夕陽を招き返そうとした。宋船の航路を確保するため、瀬戸の開削工事をたった一日で成し遂げようとしたからだという。が、あくまでも伝説に過ぎない。瀬戸は元々船が通れるだけの深さを持ち、大船の往来に何の支障もなかった。ただ、伝説は何らかの真実を語っている。
 ―― わしは、航路を開かせられるだけの権勢を手に入れたのだ。
 という絶対的な自負と事実である。自負は、就任3カ月にして太政大臣を退いたことからも窺い知れる。名誉職的な地位など余計なものだといわんばかりに辞意を表明し、前大相国となって国政に参与する覚悟を固めた。そして、院政を執る後白河上皇摂関家の藤原基房との合議によって政事を推し進めていった。
 清盛が起こした経済革命
 とはいえ、地位や立場だけでは絶対的な権力たりえない。金が要る。清盛はそれを日宋貿易に求めた。
 父忠盛が西海の海賊を鎮定して得た貿易権を継承したのだが、清盛はさらに本格的にしようとした。海に向かって開かれた玄関口のような厳島神社から音戸の瀬戸を通り、瀬戸内の奥座敷ともいうべき茅渟の海へと宋船を導き入れたことが、それである。
 大小の和船が先導し、かつ護衛してゆく先には摂津国八部荘福原の港がある。宋船はそこへ入港した。港は、大輪田泊という。清盛が惜しみなく私財を投じ、阿波国の豪族田口成良に修築させたものである。
 清盛が土木工事に抜きん出た才能を持っていたのは、この修築からも実感できる。この港は地理も水深も充分なものがありながら、風浪の激しいことが難点だった。
 そこで、中納言の頃の清盛は発案した。
 ―― 島を造って風浪を弱めれば良いではないか。
 海を埋め立てて島を造る。だが、それにあたって公家たちが人柱を立てるべきだと言い出した。清盛はこれを一蹴し、一切経の経文を書いた石を沈めて基礎とした。そのため、島は「経が島」と名付けられたのだが、なぜ、これほどの大工事をして宋船を摂津まで導き入れる必要があったのか。
 当時、日宋貿易の拠点となっていたのは、九州の博多だった。博多には栄の商人が屋敷を構え、貿易を独占する勢いで商いを展開していた。清盛はそんな状況に苛立った。
 ―― 博多を通り越して福原まで宋船を招き寄せれば、膨大な利を得られよう。
 そう信じ、私財を傾けて大輪田泊の大修築に跨み切ったのである。かくして、宋船はこの完成間近な経が島を回り込んで投錨し、摂津の地に荷を揚げた。荷は様々にあったが、代表はやはり宋銭であろう。この宋国の貨幣は、これまで僅かながら流通していた国産の貨幣を圧倒した。当時、お多福風邪が諸国に蔓延しており、たまさか宋銭が溢れ返り出した時期と重なったために、「銭の病」などと呼ばれたりもした。
 それくらい宋銭は猛威を振るったが、貨幣経済を驚くほど進歩発展させもした。言い換えれば、清盛は日宋貿易によって経済革命を引き起こしたのである。革命は、清盛をして朝廷を凌ぐほどの富者にまで押し上げた。だが、限られた国内において、ある勢力が伸し上がれば、それとは別な勢力は凋落する。前者は平家、後者は朝廷と寺社だった。清盛が肥大すればするほど、そのせいで貧相になる者が出る。当然、膨張してゆく側は、没落してゆく側から妬かれ、疎まれ、憎まれる。このとき、
 ―― 清盛ごときに媚び諂うものか。
 鬱勃と敵愾心を滾らせたのが、後白河上皇であった。
 なるほど、後白河は天皇在位の境より清盛と蜜月関係にあった。たが互いに利用し利用されることを好しとして邪魔な存在を次々に攻め滅ぼし、遂にはこの国の頂点に君臨した。しかし、清盛が千僧供養を催した境から、蜜月にひびが入り始めた。
 千僧供養は千人の僧を招いて読経させることで、以後、清盛は春と秋の彼岸には必ず催した。後白河も出家して法皇となってからは、千僧の一人となって参加している。
 いや、参加させられた。また、福原を訪れた宋の使者との引見まで求められた。これについて公家の九条兼実は、「天魔の所為なり」と日記に綴っている。天皇法皇が外国人にまみえることなど未曾有のことだと騒ぎ、公卿たちは陰口を叩いた。だが、清盛は他者が己をどのように思おうがそんなことはどうでもよかった。
 清盛には、為さねばならないことがある。平たく言ってしまえば、国を富ませることだった。貿易を臍とした、より一層の経済発展を成し遂げねばならない。それによって平家一門も繁栄する。
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