☲38〕─1─日本軍は沖縄を捨て石にしたが見捨ててはいなかった。沖縄戦と朝鮮人徴用工。~No.144No.145 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 沖縄県民(琉球人)を下等人間と軽蔑し差別した日本人(本土人)は1割。
 沖縄県民を同じ日本民族と認めて沖縄を守る為に戦った日本人9割。
 日本人にも、いい日本人とわるい日本人はいる。
 日本人も沖縄県民も、同じ縄文人(南方系海洋民)の子孫であり、大陸系草原の民の子孫ではない。
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 兵役免除されていた朝鮮人青年と朝鮮人少女達の内、日本国籍を持って日本人たらんとした親日派は日本人と一緒に戦ったが、日本人を憎む反日派は戦いを拒否して逃げ出した。
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 反日朝鮮人青年は、日本軍兵士となって戦死するより徴用工として生き残る方を選んだ。
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 抗日派朝鮮人朝鮮人テロリストは、志願兵や軍属として日本軍の中に潜り込んでいた。
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 本土の日本人は、沖縄人をバカにし差別していた。
 それは、今も昔も変わりはない。
 本土は、総論では沖縄に同情するが、各論となると沖縄に冷淡となる。
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 沖縄戦。1945年3月26日〜6月23日。
 日本軍:7万7,000人。
 県民義勇隊:2万5,000人。
 アメリカ軍・イギリス軍:54万8,000人。
 上陸部隊:18万3,000人。
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 日本の青少年は、男の子も、女の子も、絶望的状況に追い込まれても、逃げる事なく死を覚悟して戦った。
 朝鮮の20代の青年は、兵役が免除されていた為に徴用を利用して、少女達を助ける事なく戦わず蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
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 日本側犠牲者:18万6,500人。
 県外出身者死者:6万5,000人。
 沖縄県民死者:12万1,500人内民間人9万4,000人。
 アメリカ軍・イギリス軍戦死者:1万4,000人。
 アメリカ軍戦傷者:7万2,000人。
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 昭和天皇は、沖縄救援を望んでいた。
 ウィキペディア
 第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。
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 天一号作戦の一環として沖縄方面に最後の大型水上艦による出撃、海上特攻。
 坊ノ岬沖海戦:4月7日。
 第一遊撃部隊(戦艦大和と第二水雷戦隊の軽巡洋艦矢矧・駆逐艦8隻)。
 沈没:戦艦大和軽巡洋艦矢矧、駆逐艦2隻(朝霜・浜風)。
 自沈:駆逐艦2隻(磯風・霞)。
 部隊の戦死:推定3,721人。
 戦艦大和、戦死:2,740人、生還者:276人内戦傷:117人。
 アメリカ艦隊:空母7隻、軽空母4隻、艦載機386機。戦艦6隻、巡洋艦11隻、駆逐艦30隻。
 艦載機損失10機、戦死 12人。
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 菊水作戦:1945年4月6日〜6月22日
 沖縄諸島周辺での特攻作戦。
 海軍機は940機、陸軍機は887機によるカミカゼ特攻。
 他に通常作戦機も多数出撃していた。
 カミカゼ特攻による戦死:海軍は2,045人、陸軍は1,022人。
 アメリカ軍被害:駆逐艦など撃沈36隻、損傷218隻。
 戦死:4,907人。戦傷:4,824人。
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 人間魚雷「回天」
 特攻兵器「桜花」
 その他の特攻兵器。
 若い日本人兵士達は、最後の勝利を信じて命を捧げた。
 それが、『きけ わだつみのこえ』である。
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 日本政府と日本軍は、沖縄を防衛する為に日本各地から多くの日本人若者を集めて沖縄に投入し、その多くを沖縄の地で戦死させた。
 日本は、沖縄を見捨ててはいなかった。 
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 沖縄に送られた日本人兵士や特攻隊員達は、沖縄を守り、日本国を守り、昭和天皇を守る為に、絶望的な、確実に戦死する消耗戦を「死を覚悟」で戦い、戦死して靖国神社の神として祀られた。
 それは、紛れもない事実である。
 若者達の純真な気持ち・思いを「反戦平和」という醜悪な言葉で踏みにじり、戦死した若者達の心・まごころをゴミのように捨て去って恥じないおぞましい日本人が増えている。
 心汚れたおぞましい日本人の常套句が、「日本は沖縄を見捨てた」「日本は沖縄を捨て石にした」「日本は沖縄を犠牲にした」そして「日本は沖縄を差別している」「戦争に巻き込まれて死んだ沖縄県民・琉球人の死は無駄な死であった」「特攻は犬死にであった」である。
 彼らには、歴史、過去、死者を語る資格はない。
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 昭和天皇も、沖縄の事を忘れてはいなかったし、一人でも多くの沖縄県民が助かる事を願っていた。
 それ故に、崩御されるまで沖縄の事を気にされていた。
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 ・開南健児之塔              糸満市字米須       
 碑文
 開南鉄血勤皇隊270名が、山3430部隊(第24師団司令部) 山3482部隊( 通信隊)山3475部隊( 歩兵第32連隊) に、それぞれ分散配属され、熾烈な戦線に奮闘し90名が戦没す。この慰霊塔には開南同窓生及教職員全戦没者 (15年戦争も含む) が合祀されている。           
  ◆設置管理 開南中学同窓会
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・沖縄師範健児之塔            糸満市摩文仁     
 碑文
 昭和20年3月31日、第二次大戦の最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第32軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員された。 然るに同年6月22日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将が自決するに及び、師範隊は解散するに至ったが、この間、総員480名中300有余名が守備軍と運命を共にしたのである。
 生存者達の手によって「慰霊の塔」が建立されたのであるが更に、太田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」の出版並びに同名映画の上映記念事業として、廣く江湖の有志の方々の御後援の下に、この「平和の像」は建てらたたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎らされた平和への希願を永久に伝へるべく生存者達は心から祈るものである。  
          発起者一同     
 歌碑
 渕上房太郎(昭和29 献)
 「ひとすぢに お久にまもらん わかうどら いのちはてにき えりをたださむ」
 仲宗根政善
  「南の巌のはてまで守り来て散りし龍の児雲まきのぼる」
 北白川祥子        
 「石ふみに名をはとめて 永久に島守りませ若きみたまよ」
 「師と友とここのいほりにたふれたる若き命の惜しまれるかな」
    ◆ 設置管理 沖縄師範健児之塔遺族会
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 ・一中健児之塔               那覇市首里金城町
 碑文
 一中健児之塔は、先の大戦で学業半ばにして散った職員17柱、生徒200余柱の英霊を合祀する。
 この地は、昭和15年、県立第一中学校(首里高等学校の前身)創立60周年記念事業として建設された養秀寮の跡地であり、昭和20年3月27日敵軍を目前にして最後の卒業式が挙行され、鉄血勤皇隊が結成された地である。
 県内の各中等学校は、昭和19年10月10日の那覇大空襲以後は、軍事教練のほかは学業は全く停止され、昭和20年3月25日ついに軍から学徒動員令が発せられた。
 学徒によって組織された鉄血勤皇隊、通信隊は、陣地横築、通信、伝令その他の任務に従い、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、終始軍と行動を共にしてその責務を遂行し、壮烈な戦死をとげたのである。
             社団法人 養秀同窓会
    ◆設置管理 養秀同窓会
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・二中健児の塔                   那覇市楚辺
 建立の詞
 1945年、第二次世界大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄県立第二中学校職員生徒は軍命により、或いは鉄血勤皇隊として、北部の防衛に当り、或いは通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、その他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。
 茲に、母校及びその後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此のゆかりの聖地を卜し沖縄県立第二中健児の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。
  1957年12月29日  二中健児之塔建設期成会
 ※尚1990年11月22日、創立80周年記念事業の一環として奥武山より、二中の象徴 城岳に新築移転した。この塔は同窓28期成、故山里昌弘氏のデザインである。
 二中鉄血勤皇隊は北部宇土武彦大佐指揮、独立混成第44旅団、第2歩兵隊(球7071部隊)或いは第62師団通信隊(石3599部隊砂川玄一郎大尉指揮)、その他の部隊にも分散配属させられ、軍と運命を共にし、北部、中部、南部と、職員9柱、生徒168柱が戦没した。
    ◆二中健児の塔期生会
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・三中学徒之碑                 本部町字並里
 碑文
 太平洋戦争も末期の昭和20年3月米軍の烈しい砲爆撃の中を沖縄県立第三中学校生徒数百名は軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰上現役入隊の形で郷土防衛の戦列に馳せ参じた。
 4月1日 米軍が沖縄本島に上陸するや陸上戦の火蓋は切って落され我が三中の生徒は此処八重岳真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し、数十名が、あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった。
 彼等の33回忌を迎えるに当り、学業半ばにして斃れ諸々の思を残して逝った彼等の霊を慰めるとともに平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え二度と再び、かかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより子々孫々に至るまでの永遠の戒としてここにこの碑を建立する。
  諸霊よ安らかに眠り給え
   我等は常に諸霊と共に在らん
     昭和52年4月16日
      沖縄県立第三中学校生存学徒一同
    ◆設置管理  三中同窓会
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・南燈慰霊之塔               名護市名座喜原
 碑文
 1956(昭和31)年1月21日
     三中健児之塔建立
 1972(昭和47)年6月23日
 なごらん同窓会(元三高女)、南燈同窓会へ加入 同会員の御霊も合祀される
  1989(平成元)年8月26日     南燈慰霊之塔改名工事完了
    ◆ 設置管理  南燈同窓会
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・農林健児之塔(同窓会)    嘉手納町字西原
 碑文
 校歌
 「見よ球陽の青天に 図南の翼拡げつつ 集ふ数百の健男子 文武の庭におい立ちて 血潮高鳴る腕を磨し 進む理想の道清し」
   ◆設置管理  旧沖縄県立農林学校同窓会
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ひめゆりの塔            糸満市字伊原      
 ひめゆりの塔の記         
 昭和20年3月24日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。    
 戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
 日本軍の首里撤退もせまった5月25日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
 南にくだって後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
 6月18日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の3分の2がこうして最期をとげたのである。            戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和21年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点 とする。
 乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 歌碑                      
 仲宗根政善     
 「いわまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは」      北白川祥子
 「ひめゆりのいさおたたふる石ふみにすがる小草をあわれとぞ見る」
   ◆設置管理 ひめゆり同窓会
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ひめゆり学徒散華の跡      糸満市字上里(荒崎海岸)  
歌碑
 瀬良垣宗十  
 「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」
 仲宗根政善
 「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの自決の地なり波もとどろに」     
    1945年6月21日
 教諭3名、生徒13名この附近にて没す           
    1972年8月15日 再建
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・第一外科壕跡             糸満市字伊原       
 碑文(ひめゆり同窓会)
 ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。
 米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋□夫教授以下多くはついに消息をたった軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点であるここで負傷戦没した生徒
 古波蔵満子 荻堂ウタ子 牧志鶴子 石川清子 浜元春子 知念芳 神田幸子 比嘉ヨシ 照屋貞子            
 藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する               
 しらじらと明けそむる野を砲弾の雨に散りゆく姿目に見ゆ
 血にそまる巌のしづくは地底にしみて命の泉と湧きて出でなむ
   1974年6月   ひめゆり同窓会
   ◆設置管理 沖縄陸軍病院慰霊会
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・梯梧之塔   糸満市字米須  
 碑文
 私立沖縄昭和高等女学校は、昭和5年3月15日山梨県出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町に設立された。学校の近くに悌梧の並木道があって校歌にも「悌梧の花の緋の誠」と歌われている。悌梧の塔は昭和25年8月1日旧校舎に建立されたが、悌梧隊関係者の熱烈な希望により、昭和49年6月23日ゆかりの地に元職員、同窓生、ご遺族の浄財で移転建立される。    
                  悌梧同窓会
 歌碑                      
 故元第62師団長御令室 藤岡 豊子
 「悌梧の塔に捧ぐいたましく二八に散りし乙女等の血潮に咲ける紅の花」
 同期生 故瑞慶覧 道子(旧我喜屋)                  
 「ゆさぶりて碑をゆさぶりて思い切りきけどもきけぬ声をききたし」
 「一人来て抱きしめて見ぬわが友よ名刻まりし濡れし石文」
   ◆設置管理 梯梧同窓会
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・白梅之塔              糸満市字国吉 
 碑文          
 旧県立第二高等女学校の4年生54名で編成された白梅学徒看護隊は昭和20年3月6日第24師団第1野戦病院の衛生看護隊に入隊補助看護婦として特別集中教育を受けていたが米軍の艦砲射撃が熾烈を極めた同月24日から東風平村富盛にあった同師団の第1野戦病院に配置され、昼夜を分かたず傷病兵の看護に専念した。      
 戦況は日毎に激化し同年6月4日遂に解散命令が下り、白梅隊は散り散りになって、戦野を彷徨し、ひとりまたひとりと戦火に斃れその場所は殆ど不明である。解散後この地に後退して傷病兵の看護に当たっていた隊員は同年6月21日米軍の猛攻を受けて無念の最後を遂げた。この辺一帯は白梅隊の最も多くの犠牲者が出た所とされている。      戦没した白梅隊員および沖縄戦で戦死あるいは戦争が原因で亡くなった教職員、生徒、同窓生※127柱の鎮魂と恒久の平和を祈念して昭和22年1月白梅同窓会が建立した  毎年6月23日の「慰霊の日」に例祭が行われる。                              昭和58年6月23日
              旧沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会
  句碑
 「散りてなほ 香は高し 梅の花
  歌碑 
 「うら若き命惜しますたたかいてつらなり果てし御霊とおとし」
                      北白川 祥子
          ◆設置管理 白梅同窓会
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 白梅学徒隊、沖縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された女子学徒隊。「白梅隊」「白梅看護隊」とも呼ばれた。46名の生徒のうち22名が戦死した。
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・ゐせんの塔                糸満市字米須     
 ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県首里高等女学校看護隊並びに職員同窓会員の御霊を祭ってある。              
 昭和20年1月25日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、3月27日野戦病院で卒業式を挙行、直ちに第62師団、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥濘の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。 
 歌碑
 夕照
 「この道もこの岩肌も乙女らが弾にたたかれ踏み惑ひしところ」  
   ◆ 設置管理 端泉同窓会
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・鎮魂之碑 糸満市摩文仁
 碑文
 先の1941年〜1945年の太平洋戦争に於いて第一次、第二次学徒出陣に依り学業半ばにして戦陣に倒れ國の礎になった友の名をここに刻みます。安らかにお眠りください。 合掌
  1998年4月
   上田繊維専門学校同窓生有志
   ◆設置管理者 上田繊維専門学校同窓生
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 他に沖縄戦に動員された女子学徒隊は
 瑞泉学徒隊、県立首里高女。
 積徳学徒隊、私立積徳高女。
 梯梧学徒隊、私立昭和高女。
 なごらん学徒隊、県立第三高女。
 宮古高女学徒隊、県立宮古高等女学校。
 八重山高女学徒隊、県立八重山高等女学校。
 八重農女子学徒隊、八重山農学校。
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 2017年3月14日 産経ニュース「沖縄・糸満に「全学徒隊の碑」を建立、戦史の継承目指す
 沖縄県糸満市摩文仁平和祈念公園で除幕された「全学徒隊の碑」を前にする元学徒隊員と関係者=3月14日午前
 沖縄県は14日、太平洋戦争末期の沖縄戦で、物資運搬や通信、看護活動を担うために組織された学徒隊の史実を伝え残すため、同県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園に「全学徒隊の碑」を建立し、除幕式を行った。
 石碑は高さ約2メートル、幅約3・4メートル。生徒が動員された県内21校と、全ての学徒隊の名称を刻んだ。除幕式には元学徒隊員らが出席し、戦死した多くの仲間に対して黙祷をささげた。看護業務に就いた梯梧(でいご)学徒隊の生き残り、那覇市の吉川初枝さん(89)は、石碑を前に「仲間も喜んでいると思う。学徒隊の存在を知ってもらいたい」と涙を流した。
 沖縄戦では旧日本軍の指示などで、男子学生らによる「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」や負傷兵を看護する女学生らの「ひめゆり学徒隊」といった、主に10代の若者らでつくる部隊が結成された。」
・・・  
   ・   ・   ・   

 沖縄人(県民)も朝鮮人(韓国人・北朝鮮人)も、日本国籍を持ち、日本人としての権利を持ち海外で日本国家の保護を受ける身であった。
 日本国籍を持つ日本国民は、国家存亡の危機が起きれば命を捨て戦う責任と義務があった。
 沖縄人は、日本国民の義務と責任から、自己責任と自己犠牲で戦った。
 朝鮮人は、何処にいて、何をしていたのか?
 沖縄の10代の少年少女達は、逃げる事なく、大人と混じって戦った。
 戦える者は戦い、戦えない者は日本軍の邪魔にならないように退避した。
   ・   ・   ・   
 1944年頃から海上輸送は危険となり、島外脱出を断念をして、北部と南部に避難した。
 少年少女達は、
 建前では、日本国民として、昭和天皇と日本国家を守る為に死力を尽くした。
 が。
 本音では、沖縄人として、家族と沖縄の守る為に、絶望の中で死の恐怖と戦いながら戦場を走り回った。
 そして、
 日本軍兵士と一緒になって戦い死ぬ事で靖国神社に祀られると信じた。
 靖国神社は、少年少女の心の支えであり死後の安らぎであったがゆえに、少年少女達の悲痛な念いを受け止めた。
 心の弱い日本人にとって、靖国神社とは、魂が辿り着く死後の安住の地であった。
 そこは、天国や楽園ではなく地獄でもなく、生きている家族と死者が心と心で会える静寂に包まれた癒やしの聖地であった。
 日本人の精神力は、島国で生きてきただけに、中国人や韓国人・朝鮮人アメリカ人、ロシア人など大陸で生き抜いてきた人間に比べて、勇猛で強靭ではなかく臆病で脆弱であった。
 一人となり個人でいると死ぬほど不安になるがゆえに、安心する為に皆と集団となって肩を寄せ合って行動していた。
 靖国神社は、死者の霊魂が祭神として存在する神域で、生きている者が死んだ者を念う事で癒やされる憩いの精神道場である。 
 少年少女達は、最後の勝利を信じ、勝って沖縄を守り、生き残って家族に再会する事を皆で誓い合い、決して、希望を捨てず、夢を諦める事なく、戦いそして戦死した。
 靖国神社は、国を守る為に戦って死んだ少年少女を英霊として、その御霊を顕彰し慰霊する為に祭神として祀った。
 生き残った家族は、靖国神社に人神として祀られている少年少女達を想い、人としての幸せを知らず若くして死なねばならなかった運命を憐れとして、安らかにあれと念じて涙を流して祈りを捧げた。
 中国、韓国・北朝鮮アメリカ、ロシアなど反日的諸外国は、靖国神社軍国主義の象徴、侵略戦争を美化する戦争神社と激しく非難し、如何なる理由があっても参拝する事に猛反対している。
 一部のキリスト教会など、死んだ人間を人神として信仰する偶像崇拝及び個人崇拝を否定する不寛容な宗教は、靖国神社の廃絶と人神の廃棄を強く要求している。
 反天皇反日的日本人は、純粋無垢な少年少女達のひたむきな想いを踏みにじり、その死を無駄死にだったと貶め、心の支えとしていた靖国神社から放逐しようとしている。
 国内外に於ける、反靖国神社運動は止まない。
 日本民族日本人の人神信仰としての靖国神社に対する特別な念いは、世界に幾ら説明しても理解されないどころか強い反発と激しい非難を受けている。
 靖国神社は、賛成・反対の不毛な大騒音に包まれ、静寂の祈りの聖地ではなくなっている。
 人が混んだ賑わいは喜びであるが、人がいがみ合う騒然は哀しみである。
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 戦況の悪化とともに輸送船の航行が不可能となった。 
 日本本土はもちろん朝鮮や中国からの輸送船の多くが、アメリカ軍の攻撃で撃沈された。
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 2014年9月10日 琉球新報「<社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ
 沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった。
 宮内庁昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。
 しかし、沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や、戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「見つからなかった」との理由で、盛り込まれなかった。編さんに24年かけたにしては物足りず、昭和史の空白は埋められなかった。
 昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
 私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」



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